私の舞踊史Ⅶ

柴﨑政夫

 

 俳優生活も新年度に入った。突然「柴﨑君、君の声は遠くまで通る。すぐに使えるよ。」と言われた。続けて「一つチャンス逃したけどね。」→「何のことですか。」→「いや終わったことだからいいんだ。」

 これが我が師Tとの出会い。直木賞作家の自伝的映画化に際し、事務所側に主役募集がかかっていたが、私との連絡がつかなかったとのこと→10ヶ月後に公開。桂浜を素っ裸で走り抜けるシ-ン。この年のベスト1作品だった。

 師の講座名は「肉体表現」。何のこと!? ボディワ-クス……言葉を自分なりに理解し、身体を駆使して表現すること。

 当時、アメリカのダンス界では広くモダンダンスの一手法として確立されてたジャンル。これに対し、日本演劇人は、言葉を深く理解するも、日本的風土に根ざして想起される心理を表現するもの。

 「動きによる演技」なのだが「説明的要素が入るマイム」とは異なり、全て省略し、人間や生命体として「与えられた状況に応じた心理変化」を表現すること。

 基本原理はドイツのノイエタンツやフランスのパントマイムに端を発しながらも、状況設定から心理変化を発展するように指示され→小品発表まで。という制作過程の流れである。

 リアルさにおいて群を抜く手法。←舞踊手が「僕じゃなく、役を演じてる僕です」と言い訳がましさが目立つのに対し、「本人になり切って演じる技法」である。

 課題を与えられると、私の場合、高揚が先走ってしまい、相手を無視して即興の世界へと突き進む。

相手役との釣り合いを取るにしても、育ち切れていないから、監督側は無理にでも私に注文し、調整を図ろうとすることになる。(→イラッとくるわけだ。)

 しかし、よく動く故に、相手役の感情表現が不足→相乗効果がもう一つ盛り上がらない。

 結果、作品としての深い心理の高揚・横溢感や内密さが危惧される。そこが課題。

 周囲に見られる環境で、白熱した展開が不意に途切れる場面に出くわす。→「途切れましたね」と指摘がくる。←面白くない顔を見せると「その顔!今の自分をさらしてる」と続く。その繰り返しである。←何のことはない、相手の受けがト-ンダウンしただけなのだ。

 

 もう一人の指導者が旗野恵美さん。「タイツ用意しなさい。」と言われ、伊勢丹まで買いに行った。

女性用は練習下着として、専門ショップか通販。しかし、男性用は厚地製。

 当時、購入者は教育テレビやオペラ出演者ぐらい。必要な色指定で限定販売。男性用を販売する店は皆無に近かった。

 いきなり恥を忍んで買いにいったわけだが、彼女が後の日大芸術学部演劇コ-スの教授である。

 彼女の場合、動きの基礎訓練を終えると、20分以上創作活動に浸らせる。

 ただし、その直後、「同じことを再現してみなさい。時間は半分にして。」とくる。まさに拷問である。

 ただ、この作業のおかげで、のんびり浸っていた自分と、それを見つめる自分との両面があることに気づく。

 この記憶復元方法が一年後には強化され、舞台人として、「揺さぶりに強い自己確立」につながる。こういった教育手法が繰り広げられ、心理的壁を越えるきっかけ作りになる。

 台詞は自分と相手役双方のどちらも覚えておき、必要に応じて出す→代役可能、瞬時の手直しも可能。それがプロのレベルである。

 残念ながら、事務所側は、とある事件の対応に追われ、収拾の真っ最中であった。

 売れる子の隣で売れない子がいる世界。「一緒に頑張ろうね」で始まった愛情や友情が、一瞬のうちに消えてしまう世界。

 明日から多忙になる子、取り残される子。それだけでも耐えがたいだろうに、警察沙汰に発展。

 周囲の見る目、保護者達の期待と不安、そして、誹謗中傷。それが面々と続く裏側社会。

 実力があってもそれだけでは通用しない世界。

 はったりもあれば、支援者獲得に励む者どもの世界。

 皆が皆、安っぽい商業演劇の華やかさに振り回され、週刊誌が記事にしようとうごめいていた。

 それらを冷めた目で見る私。

 西洋古典劇、近代劇、翻訳劇の学習が目的だから、放送界で売れようなどと思っていない。

 必要とあれば、声かかるだろうと思ってた。

 「何でおまえはそういう反応をするんだ!?」と言われるが、古典演劇・現代小演劇、様々な海外からの文化導入の様相を知りたい私にとっては志望外。

 営利目的の人はたくさんいたし、ジャンルを問わず機会を探してた。

 むしろ出る以上、顔だけでなく裸までもという時代。

 私に!?→「やれ!と言われりゃやりますが、自己顕示欲より、自己表現を作りたい。勉強したい。そこに気を遣う理由はない。」それだけのことだった。←それを「えれ-プライド高けえ奴!」と言ったのは同期の声優B・K。

 一方、古典的芸能は血筋、後継者達でいっぱい。入り込めても、せいぜい、一番下からのやり直し再出発である。

 国立養成所ができたにせよ、所詮「馬の足役」止まりの世界。

 学んだにしろ、場づくりができてない。学校公演や公共機関企画主催事業でないと、入り込める場所がない。養成所指導者には申し訳ないが、国立劇場のような大舞台では血統と指導者お墨付きが不可欠←宣伝効果大。

 ましてやこの顔・体型。どう見ても洋物以外に通用しない。細身に着物は不安定。

 テレビ映画等の舞踊ジャンルは振り分けされていて、時代と舞踊手法がほぼ固定化。

 (天平)雅楽、(安土桃山)能と狂言、(江戸)歌舞伎、といったその道の専門家が、背後から指導して役者達を支える世界。加えて、流派の縄張りも存在する。

 空きがあるとすれば、時代背景が不明確な舞踊。←かなり怪しいが。古墳時代前の農民舞踊、平安末期の越天楽今様は可能性あり。

 室町後期の戦乱期の信長役のように「思い込みで踊る武将」の能狂言や一揆の農民舞踊。

 だが江戸時代となると区分がはっきりでる。→役者も勉強し直すか、名取りをめざすか、努力が必要。……最初から日本舞踊やってれば有利。

 商業演劇は現場主義だから、監督のOKが出れば採用。だから必死になる。

 主役脇役等は感情表現に必死。まあ喜怒哀楽を限界まで表そうとするわけだ。

 そうするあまり、最後には「平素の自分」つまり個性があらわになってくる。

 1回はそれで通用。しかし重なると、観客は離れてしまう。「進歩しない」というわけだ。

 加えて、誰も教えてない。これが怖い。次席を狙う者ばかりの世界なのだ。

 結果、好感度だけが頼りとなり、それが維持できなければ、真ん中役は交代させられる。こうした重責商売が続く。

 だから、ど真ん中を務める人間は数年で飽きられ、10年いたにしても、成長できない子どもの精神のまま、年1回の大作だけ主演→勘違いの大スタ-になってゆく。

 

 ところが「脇役志望」は、感情表現の起伏ではなく、台詞の間と間の「時代背景を埋める作業」に徹する。

 それぞれの作品に伴う時代感をまといつつ、感情の起伏を抑えて対処する。←これを数多くこなすことでプロとして生きていくわけだ。

 言い換えると(賢いが)バカな顔をして仕事を請け負う。切り替えを早くし、「いらない」とされた表現はすぐに捨て、時代的な味付けを工夫する。

 これが、歌舞伎や古典芸能にはないが地味で、現実の貧困社会に居そうな人物づくりをすることで、リアリティを加え、古典芸能の二代目等が入り込めぬ演技の補強をする。

 加えて、自分を下げ「主役を引き立てる努力」が求められ、これに耐えられぬ者は外される。

 

 この頃は、朗読劇、古典芸能、日本舞踊等様々な勉強会が発足しては消えていった。歌もその一つ。ほとんどが自主公演。→発足しても維持管理にはチケット販売が課せられ、支援者獲得がないと頓挫する。

 

 言い換えると、現場主義から経験を積み、必要とされる力をつけていって、各専門家の指導を受けられる内弟子→独り立ちというのが役者の世界。

 加えて支援者も必要。一見遊んでいるようにみえるが、経済面・精神面での支援者がいないともろい。←いいんだよ。今のままで。次頑張ろうね。これだけで救われる。

 こうして、耐え忍ぶ者ばかりの限界的集合ができる。

 そこにレギュラ-番組採用不採用の判定→事件発生となってしまった。

 私はこの事件直後、活動を再開したわけだ。「後悔しないかい。」これが現実だった。

 日本舞踊は花柳流の方、狂言は和泉流家元からご指導いただき、結論的には洋物に向く資質であったため、新劇と称する翻訳劇・西洋古典劇・現代劇等中心に学ぶことになった。

 この時代、役者、俳優(女優、声優含む)、司会者、コメンテ-タ-、ナレ-タ-、タレント、歌手、タレント、といったジャンル分けがあり、既成興業形態と強く結びついていた。

 それが徐々に経済発展に伴い、独立プロ制作→興業団体任せ、放送会社企画←請負プロ発足。といった契約の変化に伴い、主役級は一本釣り、脇は「空いてる状況で採用」、補助追加は下請け団体へ一任。という業務提携に移行する。アメリカンビジネスモデルが日本上陸する時代を迎えていた。

 ここに、バーター制度等を利用して、とある団体が「他団体の者を出演させるなら、一切、手を引きます」という圧力構造が発生するやり方を始めた。

 テレビ局側も元々は教育放送専門チャンネルとして発足したものが、視聴率稼ぎと、コマ-シャル団体獲得のため、幼児青少年主体の教育番組制作に手を染めたのが始まりである。

 「上手い下手」は二の次、「発展途上にある若者世代起用」という視点から、若者公募←応募者減を危惧して、特定団体からの補充を画策。

 すると、幼児・小学校番組では、伝統芸能主体の団体は敬遠するが、ほぼ収入がなくとも、「顔見せ」興行的な知名度獲得が期待できるため、地方における興業として、アメリカ文化の紹介と低年齢層を狙った事業を画策する特定団体が徐々に発展。

 この中から知名度を生かしてテレビ出演へ。という流れができてくる。

 専門分野を持たない若年層育成を理由に、義務教育終了から成人年齢までの過渡期を対象にした下請け団体が、様々な放映番組の下支えとして、出演者補充のプロダクションとして成長する。

 数年経ると顔なじみがスタ-化。これが徐々に巨大化→バーター制度等を利用→番組スタッフへの忖度。

 何のことはない、「上手い下手」は二の次。子ども時代を過ぎた青春タレントを主役にし、会社員の監督が制作する映画やテレビ番組が横溢する時代の準備となった。

 監督は会社員だから、視聴率優先となり、主役タレントの所属事務所が補助員をかき集める構造となる。→徐々に事務所側の圧力が増してくる。

 作品の善し悪しでなく、収支決算がものをいう時代になったというわけだ。

 ただ、年に1回は「芸術祭参加」レベルの作品がほしい。ここに私のような者がいたというわけである。他の仲間は「飯が食いたい」から通って勉強する。私だけが「新しい表現」を模索する毎日だった。