「西洋」について(4)(フランスに関して) 補足

山本幸生

 

 現代の世界の中では、英米を中心としたいわゆる「アングロサクソン勢力」の影響力というのは依然圧倒的であり、そのような「世界」の中ではもちろん、「西洋」内部におけるフランスの存在感というのも昨今かなり目減りしている、というのが現状である(まあEU中ではそれなりに出張っているのだろうが、あくまで相対的にということに過ぎない)

 

 先にも言ったように「西洋」という点について言うと、私はフランスの前に「英国」を通過したという事情があるので、基本軸としてどうしても「アングロ側」から見るという性癖があり、現在あえてフランスに固執して?いるのも、そうした方向に対して「カウンター」的なバランスをとりたい、という感覚もあるのかもしれない。

 

 実際、最近こそ「北欧モデル」や「中国型超管理社会」といった「別モデル群」も出てきてグチャグチャしてきているものの、とりあえずはスタンダードな英米的価値に対する攻撃的な(かつ、ある程度「正当的な」)対抗勢力としては、やや薄弱とはいえ当面フランスくらいしかないかなとも思われ、それによって、ごく自然に染み付いている「アングロ」的なものを相対化したい、というのがある(現実に、ピケティ等の、英米で注目されるフランス系のものというのは、英米において「ごく自然に」見過ごされていたものを逆方向から突く、という形になっており、フランスというのは依然としてそのような役回りが可能な数少ない「勢力」?であるという印象がある)

 

 長くなるのでここでは詳しくは触れないが、「フランス方向」から歴史を見ることによって、教科書的な「近代史」というのもまた違った形で見えてきた部分もあり、またかのシェイクスピアというのがフランスでどのように受け取られていたか、という点も「価値の転倒」という点で非常に興味深いものがあった(具体的に言えば、古代ギリシャに範をとったフランスのルネサンス演劇からすると、シェイクスピア劇は、ちょっと「野卑な」ものであるという評価もあったらしい、ということ)

 

 つまり、現在における「自然な」標準であるアングロサクソン的なものを、ある種「ダイソン球」的に俯瞰しうるための「足がかり」、というのが私にとっての「フランス」というものなのであり、まあ今となってはそうした「足がかり」というのは私にとって絶対的に必要なものというわけでもないのだが、とりあえず何かやることがあるとしたら「そちら」かな、というレベルで(フランスについては)考えている、ということであろうと思う。

 

(フランス補足終わり→次回は英国について)

 

 

主宰Facebookグループ「哲学、文学、アートその他について議論する会」