東洋「哲学」について(3)

山本幸生

 東洋思想、という点について言えば、私はインド思想や仏教などに強く惹かれた時期もあった。特に「自分の中ですべてをいったん壊して、改めて作り直す」のだという禅の考えや、いわゆる「梵我一如」といったインドの古代思想については、「これこそがまさに自分の求めていた思想だ」とさえ一時は思っていた。

 しかし色々読み進めていくうちに、こちらの方でも少しずつ違和感のようなものを感じはじめ、やはり結局離れてしまったのだが、その「違和感」の原因というのは、それらの思想の奥底に流れる、ある種の「麻薬的なゆらぎ」のようなものであったように思う。

 つまり禅にせよ「ウパニシャッド」にせよ、突き詰めていくと、壮大緻密な「形而上」的思考の最深部に、いわば一種の「酩酊状態」みたいなものが存するのであって、自らその酩酊状態の中に飛び込んで漬かりきらない限り、それの帰結たる「認識」も得られない、という部分がある、ということである。

 言い換えるとこれはいわば自己というもののほぼ完全な放棄を意味し、それは当時も今も私にとっては全くあり得ないことだったので、最終的にはそれらの思想群も「通り抜けていく」ということになったのだった。

 むろん、例えば仏教などにおいても、顕教、密教などのように、神秘主義的傾向が強いものとそうでないものがあるのだろうが、それでもやはりそれらは根本的には宗教、すなわち一番本質的なところで「酩酊状態」が要求されるもの、という点では同様なのであって、私にはその部分がどうしても受け入れ難かった、ということなわけである。

 ただ、それらの壮大かつ混沌とした世界観というものについては、現在でも大きな魅力を感じ続けており、私の目指すとことは、そのような「構造」は保ちつつ、奥底の「酩酊状態」をいかに除去、あるいはより知性的な形で「処理」できるか、ということであると言ってもいいほどだ、と考えている次第である。

 しかしこうした私の「遍歴」の話はともかく、「仏教」そのものについても少し述べておくと、私は、ゴータマが始めたそもそもの仏教というのは根本的に極めて「単純な」ものであったと考えている。すなわちそれは「期待しなれば(=欲望がなければ)失望もしない(=苦しまない)」という非常に素朴な「個人原理」が出発点になっているという意味だが、それを限界いっぱいまで拡大して「世界原理」にまで一般化したものが「悟り」として抽象化された、ということであろうと思う。

 先の「禅」をはじめとする様々な分派というのは、この「個人原理」→「世界原理」という膨張の過程において現れてきた無数の星雲のようなものであり、それ自体が仏教というよりは、そうした膨張が「可能である」ことを様々な形で傍証したものであるに過ぎない、ということだ。

 そしてそれら「仏教」各論は、その膨大な理屈の究極の先端において普遍化された意味で「欲望、ひいてはそれを発するところの自我そのものの完全な消去」というところを見据えているわけであり、それが私には「酩酊状態」のように見えた、ということであろうと思う。

 私が最終的にそれら「インド系」思想から離脱したのは、「ラーマクリシュナ」という、その筋では有名らしい人の本を読んだのがきっかけで、そこにまさしく純然たる「酩酊」を見てしまったことから、もはやこの鉱脈に汲むべきものはない、と判断したのだった。

 

p.s.

 正確にいうと、その後一瞬また興味が一部復活して、どこかで出ていた文庫版の「マハーバーラタ」(古代インドの叙事詩)を全巻読破する、という企画を立てたが、途中で立ち消えになったのが「本当の」最後だった、ということかもしれない。

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