詩二篇『家族譜』より「書かれた母」「書かれた父」

飯島章嘉

 

書かれた―母  「家族譜」より

 

母は 捨てる

真昼に閉じた雨空へ捨てる

滑空する白色の鳥が堕ちる所

そこに堕ちる母のものを捨てる

湿地帯に隠された 母の書いたもの

そこに堕ちる母のものを捨てる

滑空する白色の鳥が堕ちる所

真昼に閉じた雨空へ捨てる

母は 捨てる

 

 

母は 捨てる

母を 捨てる

 

 

子供は母と眠った。

深夜、不在の父の声が聞こえた。

それはおそらく父の怒る声だ。

と子供は考えている。

 

子供は母のベッドの下だ。

大好きなおやつはそこで食べるのが習慣になっていた。

ベッドが軟化した。

「上は大水 下は大火事 なあに」

子供がつぶやくと

ベッドは元に戻った。

 

湿地帯を父と母と子供が歩いていく。

三人が一緒というだけで

子供の気持ちは浮き立っている。

何のきっかけか、父と母は黙った。

やがて母は湿地帯の高い草の中へ消えた。

父は母を追おうとはしなかった。

まもなく子供の目から涙が流れ出すだろう。

 

湿地帯に隠された母の書いた詩集。

それは母が結婚する前に書いたものだ。

ほとんどが濡れており

読むことは不可能だ。

細い水の上を書かれた言葉が

流れていく。

 

子供が生まれる以前

しばしば父と母は

湿地帯の高い草の中へ入っていった。

ある日無数の白い鳥がそこから飛び立った。

その日から二人で高い草の中へ入ることはなかった。

 

ゆくりなくも母の鏡台は壊れる。

いつも鏡掛の被せられた三面鏡の鏡台。

鏡台が子供の興味を引くのは当然だ。

三枚の鏡が絶えず覗く者を増幅させる。

母の化粧姿を背後から覗く。

母と子供を増やし、増やし。

「ほら、みいんな家族」

と鏡の中の母が微笑む。

際限なく奥へ奥へ、目くるめく相似形の地獄へ。

一つとして二人の写らぬ鏡面はない。

 

母の鏡台は

湿地帯に不法投棄された。

そこに行けば

いつでも鏡台を見る事が出来た。

半ば汚泥に埋もれた鏡はとうの昔に割れ

泥だらけの破片は今や何も写さない。

 

ベッドに母の生理用品が散らばり

その中に母は座っていた。

子供は何が起こったのかわからない。

でも何かが起こったことはわかる。

ベッドから流れるおびただしい血が川となる。

しかし子供の遊び場にはならない。

 

やがて子供が眠り

母は戸口に立っていた。

その扉の向こうは湿地帯だ。

 

 

母は捨てる

母は詩集を捨てて走る

衣服を捨て

家族を捨て

生理用品を捨てて湿地帯を走る

当然のように

母の手に子どもはいない

 

 

 

 

 

 

書かれた―父  「家族譜」より

 

(父、父、父、と泣く声が聞こえるがあれはなにか)

(息子の声か、ならば過去からの声か)

(父の声か、冥界の声か)

倒れたまま父は泣く

足をすくわれ転ぶ

父が「あかの他人」と呼ぶ人々から

湿地帯の臭気がただよう家族から

父の体臭が漂う家から

父は失踪をくわだてた

父の体臭が漂う家から

湿地帯の臭気がただようう家族から

父が「あかの他人」と呼ぶ人々から

足をすくわれ転ぶ

倒れたまま父は泣く

(父の声か、冥界の声か)

(息子の声か、ならば過去からの声か)

(父、父、父、と泣く声が聞こえるがあれはなにか)

 

    *

 

父の休日、それは家族の恐怖だ

猫のような怠惰と犬のような愛想と

気まぐれな不機嫌が家族を縛る

新聞を広げた父

聞くにたえない声で家族を呼ぶ父

母音の発音に開けた口には歯は一本も見えず

舌の上をさぐる蠅がいる

(父、父、父、と泣く声が聞こえるがあれはなにか)

 

深夜の寝言といびきと歯ぎしり

それは 父の恐怖の叫びだ

(父、父、父、と泣く声が聞こえるがあれはなにか)

 

腐敗の時間の澱のなかで

廃墟にたたずむ父

しかし父そのものが廃墟なのだ

不安定な床板と

風雨で浸食された壁と

理解不能に歪んだパイプのぶら下がる部屋

(父、父、父、となく声が聞こえるがあれはなにか)

 

生殖と生殖のあいだに

立ちすくむ無用者

存在の不合理

彼に幸福と不幸をあずけるのは

一生の大博打だ

父は泣く、父は泣く、息子のように

息子は泣く、父のように

ちち、ちち、ちち、となく

 

父の計画はあまりに浅はかだ

その結果息子に殺される

あるいは息子を殺し損ねる

これは古代の劇ではない

現在という時間のさなかで

父は死の時刻まで生きる決意が強いられた

しかし永い時ではないだろう

なぜなら父は湿地の瘴気におかされ危篤だ

(息子の声か、ならば過去からの声か)

 

父は湿地に埋葬されるだろう

一本の卒塔婆が、父の

勃起したペニスのように屹立するだろう

 

*

 

(父、父、父、と啼く声が聞こえるがあれはなにか)

(息子の声か、ならば過去からの声か)

(父の声か、冥界の声か)