私の舞踊史Ⅸ

柴﨑政夫

 

 当時、私の所属する所と劇団四季だけが創作子どもミュ-ジカルに意欲的に挑戦。互い違いに、夏休み番組として放映された。

 その企画代表が私の師Tであり、イ-ゴリ・モイセエフ・バレエを手ほどきした人。

「パルチザン」は老若男女が心ならずも戦場に駆り出され、出来損ないの自分と仲間からの励ましに支えられ、助け合って1日の任務が終わることへの哀感を強烈に打ち出した作品。

 見所は、英雄的舞踊表現のみならず、落ちこぼれ人間の団体生活への帰順を哀感を交えて描き出したところ。

 彼が要求するのは「弱者と強者が同時に存在しながらも、使命に支えられて、努力する姿」だった。

 T自身、俳優座での「どん底」のペ-ペルの演技によって、熱情演技の典型と賞賛され、後に東京裁判の裁判長役で、沈黙し続けながら、最後に判決を言い渡す役。すなわち、抑えに抑えた演技開眼により、舞台評論で「動的・静的演技の両面を駆使した演技力」が高く評価された人。

 その彼がミュ-ジカル版「船乗りクプクプの冒険」「杜子春」「リリオム」と計画し、小学校・中学校・高等学校用演目として、一つずつ作り上げ、全国巡演する計画だった。

 当時は、西欧の著名作品が導入された時代。

 日本を舞台・あるいは原作とした主題のミュ-ジカル化が補助対象作となっていた。「ひょっこりひょうたん島」の原作が「船乗りクプクプの冒険」。「杜子春」は芥川龍之介によって書かれた物語。「リリオム」はF・モルナ-ルの「回転木馬」の原作。

 小学校用ミュ-ジカルは、主役男子を女性の子役経験者から起用。中学校用ミュ-ジカルは、私の先輩の中から、好感度の高い人材を起用。

 これらの反響を見ながら、高校用の準備をする計画だった。

 ところが、既にプロ生活の人たちがこれらの作品に入るようになっていった。

 色に染まらぬ若い世代が結束して作り上げるはずの企画が、従来作の延長の視点で、波風立てずに処理されてゆく。

 無難に、軽く、仕上げられていったから、創作への期待感は薄れてゆく。

 そこへ、年度更新で協同組合代表に就任したのが私の師T。

 公平さと思いやりを持って、新規ミュ-ジカル路線を推進する代表におさまったわけ。

 その証として、就任演説の際、彼の口から「今後一切、弟子は取らない。これまでの関係も白紙に戻す。」と宣言。

 のんびり「あと2年も待てば、準備に入れる。」と思っていた私は愕然とした。

 氏には抱え込んだ内弟子のような声優B・Kもいる。(野球珍プレ-集の解説等で成功)

「切る」と言われて、一番はっきりとしなければならないのは私だった。

 思えば、幼児期から自らの意思をゆがめられ続け、他人に利用されてきた人生だった。

 ……お前には才能がある。どこへ行ってもどうにかなるさ……

 そう言われ続けて、あっちへ行き、こっちへも。ようやくたどり着いたかに見えたその場所も、待っていたのはこの処遇。

 またもやこれだった。

 高三時代、公務員初級試験合格で200通を超える募集用紙が届いた。大学レベルはともかく、4年生時にこっそり教員試験を受けたら、一次試験合格。舞台があるので、2次試験は欠席した。

 だから、「教員になる」と言えば、もう1回の繰り返しをするだけのこと。

 つまり、一生をかけて最後の最後としての決断を下す時期が、自分からでなく、周囲の状況から起きてしまった。

 人間は「本当に悲しければ、泣かない」のである。

 あるのは空虚だけである。

 自分自身はやりぬいてきた感があるのに「周囲にそれを理解してくれる人はいない」というだけである。

 通常、観客を前にして、大声で叫び、体力・気力を使い果たしたあげくに、観客側からの奇跡の拍手という歓待が待ち構えているはずだった。

 それが、何もなく、消滅したのである。

 仲間たちの芝居のつじつまを拾い集め、つなぎ合わせ、次へバトンタッチするという作業を繰り返してきた私。

 上手いというより巧いというやり方で、つなぎ合わせる役ばかり与えられてきた。

 せめて一度ぐらい、自分に合う役柄を堂々と正面切って演じてみたかった……やり残し感だけが、身体にまといついた。

 

 当時、業界は古参の人材を使い回しながら、中央に新人を起用することで、省経費、コンク-ル企画、話題性を狙っていた。

 女性には連続テレビドラマ企画があり、男性には特撮番組の主役等への人気が集中していた。

 テレビ番組男子選抜の場合、若手新人募集→怪獣特撮映画から青少年ドラマへ選抜の時代。もう一つが刑事物の新人デカ登場。撮影が町中・田舎・工事現場といった辺鄙な所ながら、重厚感ある撮影場面がほしい。となると、大手撮影所を借りて、となる。

 走り回れる体力、水に放り込まれる覚悟、馬に乗れる技術→即戦力というわけである。

 ここで若手スタ-を当てればでかい成功。とはいうものの、確率は低い。

 となると、経費削減の折、従来からの人材の再雇用が行われる。

 老人役はOK。新人は応募スタ-。となると、中年層が課題。ここに、新劇関係のやや盛りを過ぎた人材が集まる。アルバイト感覚で作品が作られる→独立プロ制作の大手映画テレビ会社に。という流れになる。

 加えて、人材の帰属先はというと、老人役は映画へ、中年層は新劇へ、若手の当たり役は次の企画へ独立プロが暗躍。多くの若手はアクションやスタント系のプロダクションへ。

 外れた若手の中で、大手映画会社専属契約の人材はどうする。→一度にまとめて、集団が主役の特撮が出現。→それでも当たり外れが発生。

 女性陣はまあ、気が済めば引退家庭への道。

 それでは気が済まない人材もいる。

 その先が、1970年段代後半に入ると突然の企業改革路線が浮上。

 男性ヤクザ映画、女性ピンク路線が興業の中心となってゆく。

 私は企画待ち状態だったが、日本的タイプでないため、書く人はいなかった。

 多くの場合、若い子が田舎から都心へ移住する世代で。夢を持ち、挫折しながらも負けずに、友と支え合い人生を切り開く努力を描くことが主題となっていた。

 加えて、それが甘い成功の時代ではなく、追い詰められ苦渋の決断をするといった結末に陥る時代だった。

 そんな夢のない時代。

 町でうろうろする若者の中に存在感のある、一風変わった生命力に満ちたしぶとい者が、タレントとして採用される時代へと変わっていった。

 本人そのものの個性が売り。演技力でなく、体当たり。という時代になった。

 子役たちは、児童プロダクションに一任状態→目立てば使い回し→そ特定プロが番組1本ごとに独占する企画に変わっていった。

 

 こうして、今日マスコミを賑わす騒動の下地が作られていった。

 だから、気の毒なのは、新人募集で2~3位あたりで補欠合格した者。

 スタ-トは主役の隣、次は合同の特撮隊番組、それでダメならピンク路線かヤクザ路線。

 現在では、それぞれが50代近くなって、その映像がバラされるとは、思いもしなかったろうが、沈黙を保つしかなさそうである。

 

 私は外部からの客演だったため、映画会社から声はかけられたものの、雇用が別なので、それっきり。

 また、次の検討企画の主役にと面接まで行ったが、この案は、該当者の家族が死亡事故発生から週刊誌記事掲載により、現実対処等の問題が発生。→没となった。

 表では「夢を語る」商売が、裏では「リストラ案を選考する会社内の問題」を抱えていたのである。

 だから、自由に作品が描けるのは、新劇の舞台に戻るしかなかったのである。

 今、芸能界にいる人々も、こういった悩みを抱えながら生きてきているのである。

 おまけに、自分自身という素材が年々劣化するというしがらみを抱えて。

 その意味で、「上手な年の取り方」ができる人は幸せである。