マミの A4一枚、こころのデトックス(8)

矢野マミ

 

21. Let’s 家事!

 

 朝日新聞社を退社したアフロ姉さんこと稲垣えみ子さんが書いた「家事か 地獄か」(←どんなタイトル!)は、バッグの中でペットボトルの緩んだ口からこぼれた水をかぶって水浸しになってしまった。家に帰って干したけれどヨレヨレになって読みにくく中途半端に未読本になっている。古本屋にも売れないだろう。

 思い立って最終ページを開いてみたら「レッツ家事!」とある。

 レッツ……? 最近どこかで見たな? と思ったら、「すすきの殺人事件」の犯行現場のホテルの名前がLET’Sだった。

 本のオビには「一人一家事。それで全員が確実に救われる!」とあるが、札幌の家族は、あの事件を「家族の仕事=家事」と考えて、淡々と行動したのだろうか。連日途切れることなくニュースに出てくるので私以外の人の関心も高いのだろう。

 家族の事件としてもうひとつ、最近起こった市川猿之助一家の事件もある。いずれも3人家族。共通点は、既に成人している子どもが性に関する事件に遭遇して(猿之助の場合は週刊誌報道)、両親に相談したところ、巻き込まれて事件が悲劇的に加速していく。同じパターンではないか。

「両親に相談する」ことが歯止めにならずに、むしろ事態を大きく悲劇的にし、人の命や将来を損なう結果を招いている。

 先月から、都会から帰って来た子どもと三人暮らしだ。

 このことが、私をこの手の事件に対して関心を差し向ける原因の一つなのだろうか。普段は殺人事件のニュースなどには近寄らないようにしているのだが。子どもが家庭内に持ち込んだ事件に対して、両親が揃って巻き込まれて事件を加速させていく、その過程が気になっている。人数的には、1対2。しかし、子どもの悲劇的な考えを止められない。そこには何か「家族」としての共通の力学があるのだろうか。例えば、両親がどちらとも、「自分こそが子どもの理解者でありたい」と望むあまりに、「わかったよ」と子どもの考えに同調していく。お互いが競争するかのように。

 事件の解明と専門家による分析を待ちたい。

 最近、「親がちゃ」という言葉を聞くようになったが、子どもこそ「がちゃ」だ。どちらの遺伝子をどれくらい受け継ぎ、どのように育っていくのかわからない。しかし、成人しても親は親である。

 社会的には親と子どもを別人格とし、取材・報道しない、というルールはできないものだろうか。

 さ、いきなりだが気持ちを切り替えて、“Let’s 家事!” に戻ろう。

 我が家は現在「一人一家事、それで全員が救われる!」を合言葉に、これまで家事をあまりしてこなかった夫の改造に励んでいる。夕食の料理の担当回数を増やし、カレー、肉じゃが、インスタントの炊き込みご飯の他に得意料理を増やすのが目下の課題である。

 

 

22.月に代わってお仕置きよ!⓪

 

 両親が自宅を購入したために、中学2年の春に転校した中学校は、同じ市内の隣の学校でしたが、まるでタイムスリップしたかのように、すべてが違っていました。

 転校初日、まず、学校の男子全員の頭が丸刈りの坊主頭なことに驚き、女子もショートカットか、三つ編みばかりで、髪を結ぶのも黒いゴム以外は禁止でした。部活動には全員加入で、昭和末期の当時は、走った後も「水を飲んだらだめ!」な時代で、まるで軍隊みたいな学校でした。(水は、顔を洗った時にこっそり飲んでいました。……だから、今生きていられるのです!)

 授業中も、変なお仕置きをする先生がいて、宿題を忘れると、「ぞうきん」「剣山」「お化粧」「棺桶」のお仕置きを生徒に選ばせるのでした。ちなみに、「ぞうきん」とは、腕をねじり上げること、「剣山」とは、椅子の上に画鋲をまいて座らせること、「お化粧」とは、白いチョークをたくさんつけた黒板消しで、坊主頭を真っ白になるまでたたくこと、「棺桶」とは、教壇の中に生徒を閉じ込めて、上で何人かがドンドン飛び跳ねること……。今だったら、絶対に許されないことが、当時は「先生のお仕置き」として普通に行われていたのでした。そして、私が一番びっくりしたのは、この変なお仕置きのことを、その学校の生徒たちが、誰一人、ヘンだと思わず、それどころか、「今日誰がお仕置きかな?」と、楽しみにしていたことでした。

 一緒にご飯を食べたり、休み時間に話したりする「トモダチ」は、すぐにできましたが、私はその学校の人たちとは絶対にわかり合えないと思いました。2学期になると、向かいの家に東京から転校生が来て、同じクラスになりました。しかし彼女は、3学期になると学校に行けなくなりました。「不登校」も「登校拒否」という言葉もまだなかった時代、「朝になると熱が上がる」「夕方になるとちょっと元気になる」という彼女の「病名」を学校の先生も病院の先生も「原因不明」としていましたが、彼女が学校に行けない理由は、私には何となくわかっていました。毎日給食のパンやお知らせのプリントを届けながら、「ヘンなのは、彼女ではなくて、この学校」と、思いながら、私は、その学校に通い続けました。

 高校合格者の名前が新聞に掲載され、TVの深夜速報でも流された当時、「受験戦争」といわれるくらい高校受験熱が過熱していました。「中学校に、(学校に)行けない」ことは、すなわち「高校に行けないこと」を、「高校に行けないこと」は「社会人として世の中でやっていけないこと」を意味していました。

 高校を選ぶときには、その学校の人に会わないように、わざと家から遠い学校を選びました。

「なぜ○○高校に行かないのか?」と授業中に先生が入れ替わり立ち替わり説得にきましたが、私は静かに笑ってやり過ごし、自分の行きたい学校を選んで行きました。その学校の先生の勧める学校には、行きたくなかったからです。

 高校時代は、楽しく過ごしました。1年の時は、剣道部。竹刀で面を決められると頭が痛いのと、防具をかぶるとくさいのと、足の皮がむけるのが嫌で、2年生になったら美術部に入りました。2学期にはハンバーガーショップで、禁止されていたアルバイトもこっそりしましたが、当時の時給は380円。働いてもたいした額にならず、1ヶ月ほどでやめました。だから、当時なりたくない職業のNO.1は、「学校の先生」で、当時の友人たちに会うと、「今、私が教員として働いている」ことは、大笑いしてウケます。

…………

 以上は、かつて教員をしていた時に、クラスの生徒の前で読んだ作文です。クラスの生徒の前で、担任教師が読む例文として、ふさわしかったかどうかはさておき、その後の事実を追加します。

 後日、「お仕置き」のO先生と私は、意外な場所で再会しました。ある年の秋の会合で、県の「中学校長会の会長」として登壇されていたのです。私が中学生の頃には、まだ青年教師の面影を残していたあどけない横顔は、幾星霜を経て、その頭はまるで「お化粧」でもしたかのように、あるいは霜が降りたかのように真っ白だったことが、印象的でした。

 その後、数十年ぶりに開かれた中学校の同窓会では、1回目はまだ現役だったのでしょうか、既に退職された学年主任以外の先生方はご欠席でした(当時の生徒からの報復が怖かったのでしょうか?)。

退職された後、3回目の同窓会に来られたO先生は、開頭手術の後であると語られ、まるで幽霊のようにやせ細っておられました……。「皆さんに一言お詫び申し上げたくて……」と言葉少なにご挨拶され、体調が悪いということで、乾杯のあとすぐに退席されたのでした……。

 

 

23. 二人のイエスタデイ

 

 今朝起きたらなぜかこの曲が無性に聞きたくなり、終日エンドレスで聞いている。YouTubeに当時のビデオクリップが残されていて神に感謝! という程ではないが、この曲が日本で流行ったのは1985年頃。その頃の自分は何をしていたのか? 大学生? 社会人1年目? あの頃は、1年違うと天国か地獄のように全く違う生活をしていた。

 1985年、阪神タイガースがリーグ優勝した年! 阪神が優勝する年は、恋の年! 「虎に翼」の言葉通りのこの世に怖いものなしの1年。今年もそのような1年になるのか?

 それとも何か虫のしらせなのか。

 1985年の夏休みの気分になってみる。……のも悪くないか。

 とりあえずは水玉服を取り揃えて、あちこちに出かける予定だ。

 山下達郎氏のジャニーズに関する発言に紛れて、かつてアイドル歌手に提供した曲「駅」への氏からの厳しい評価が上がって来る。竹内まりや版と聴き比べてみる。確かに確かに! 「駅」という曲への解釈が全く違う! Aさんはアイドルとは言え、独自の世界観を表現して来られた方だ。(実はカラオケで歌うこともあるくらい好きな歌手の一人だ)私は、彼女がこの曲を歌っていたことを今(2023年)初めて知ったし、この曲がヒットしなかった(=世の中の多くの人からの評価を得られなかった)のはやはり解釈を間違えていたからなのだろう。

 「水玉」の後は、「ジャスミンティー」。杏里の「オリビアを聴きながら」が聞きたくなる。

 この曲もヘンな曲だ。一般的には「失恋の曲」で通っているけど、歌詞をよく聞きと、むしろ彼女は振られたのではなく、男を捨てた方だ。

 かつて、自動車事故にあったことを思い出す。

 彼は、姉の車を借りて私を連れ出した。免許取り立て。信号のない細い路地から大通りを渡る時、彼は左側をよく見ていなかった。助手席に座っていた私は、その時、時間が伸びたように感じた。ストップモーションで、コマ送りのように左側から来た車が、自分の乗っていた車のボンネットに衝突したのだ。

 車が止まって、ハンドルに伏せていた彼が放った最初の一言は、

「オレ、頭打ったけど、大丈夫かな?」だった。

 その瞬間、私には未来が見えた。この人は違う。そして、未来が見えることは、悲しいことだとわかった。あんなに好きだった彼と私は、いつか別れるだろう。それだけがわかった。

 彼は、警察官をしていた父を呼び、(その日は非番だった)事故のことは丸く収めた。彼の父は、「もう30㎝車が前に出ていたら、あなたは大けがをしていただろう」と私に言ってくれた。

 そうだろう。そうだろう。免許取り立ての、恐る恐るの運転のおかげで私は命拾いした。

 その交差点には、お地蔵さんがあった。子どもの頃、夏の終わりにいつも地域の子ども会で「お地蔵さん祭り」をしていた。お地蔵さんが救ってくれたのだ、と私は思っている。