ゴミ収集労働における「相互承認」と「追跡調査可能性」(二)

田中 聡

2015年3月30日、
大田区大森清掃事務所西分室の建物の前にての
私のゴミ収集作業員制服姿)

 

(2)ゴミの追跡調査可能性

 

 

 私たちにはゴミが収集され、どれだけの総量となり、それがどう再生され、エネルギー資源になったり、「自然」環境に影響を及ぼしたり、ゴミ減量化が実現しつつあるかという事をめぐり、確実ではなく不確実な見通ししか与えられていない。どこかに定まった基準や、判断基準が、確実にあるわけではないのである。しかしそれでも収集者、住民が協力して「ゴミ」を何らかの形で扱わねばならないという時、以下に書くような無線ICタグの使用は有意義な面があるかもしれない。(無線ICタグの基本的説明については、この(2)の後の2つの註を参照のこと。)

 そしてその結果として、自分達の先の見通しのなさ、不確実性を、それぞれの具体的なゴミ収集データの結果によって乗り越え、それぞれの行動の在り方を見出すという時、「経験的」という言葉の意味は、変容を遂げる可能性がある。

 

 「物」が廃棄され、(その個体性を含めて)崩壊し、リサイクルの過程で新たな生成を為していくプロセスでの不確実性を、無線ICタグの利用において、個々人の出したゴミの循環を語り、ある程度正確に捉える事が出来る中での事として考えてみよう。

 例えばゴミ収集人の、ゴミの性質、量への「カン」、あるいはゴミはこう分けられてしかるべき、というような「経験者」としての「見識」・「立場」よりも、むしろそうした「経験」からの知ではないが、廃棄・崩壊と生成プロセスそのものの数量的分析とそこから出てくる数値に頼る事を考えるのである。

 その中で、その数量的分析に関わる数学的自然科学と、それとの相関における「経験的」とはどういう事かが具体的かつ、抽象的で理念的にも考えられなければならない。それを以下のゴミ分別とその事によるゴミ減量についての可能性から考えてみる事は出来るだろうか。

 

 さて以上に書いたように、私は無線ICタグ(RFID)をゴミ袋に取り付ける事で、ゴミの位置、中身をゴミ収集者、住民及びその方達で作る自治体で「情報」共有可能にし(そうした事を選択制の「有料」でする中で)、ゴミ減量を推進する事と、そこから考え得る「経験的」という事とを、東浩紀さんの(『東京から考える』〈NHK出版、2007年、東浩紀さんと北田暁大さんとの対談本〉での)ご意見を参考に考えてみる。

 即ちそのタグ付けにより、ゴミから個人情報が盗まれたり、ゴミを不法業者に持っていかれたりしない様な監視を可能にし、又24時間ゴミを出せる様にもする。しかしその代わり、誰がどういうゴミを出しているかを或る程度分かる様にし、その分別についての指導情報を、収集者と住民、及び自治体内で、その都度1人1人の市民の許可を得つつ、共有出来るようにする。

 無論、無料ゴミ回収も続けつつ、そうした選択性の有料ゴミ収集で、ゴミ分別とその指導の徹底を図り、その事でゴミ減量を推進するようにする。

 謂わば先述のゴミ出しをめぐるリスクの減少と24時間ゴミ出し可能を交換条件に、住民のゴミの分別推進、更にはゴミ減量を実現する訳である。

 

 ここで問題は、自分のゴミについての「情報」を他人(収集者、町内会も含めた)と共有するという、場合によっては煩わしいと思える事を伴っても、無線ICタグを付ける事を、どれだけの人間が受け入れるかだと思われる。

 24時間ゴミを出せて、ゴミ分別の指導を受けられる、更に言えばゴミ分別を一緒にプロの収集者と協力して行う。その権利を住民が持つ。

 個人情報が自分の家族以外(例えばゴミ収集をする公務員等)にも場合によっては広まってもそれをする(勿論、本人の承認を得つつ。)。

 

 しかし、本当に実際の人間はそういう条件下で、こちらの想定通り動いてくれるだろうか?極めて少数しかそうは動いてくれないなどという事はないだろうか?そういう問題が浮かんでくる。

 更に肝心な問題として、無線ICタグで、ゴミの細かい中身、容量についての分析・情報まで、伝達出来るようになるのだろうか? 出来たとして、その事を様々な主体が共有する事に、多くの方が違和感、抵抗感を持たないだろうか?

 

 そんな不安がすぐにもたげてくるのである。

 やはり個人情報が関わる以上、プライバシーの問題への真摯な問題意識を持つ良心を忘れてはならないはずである。

 

 ここで私が、上で提起した問題についてもう少し考えてみれば、どのゴミ(袋)がどこへ行ったか、無線ICタグを付けて分かるようになるという事は、そのゴミによってどれだけの再生エネルギーが得られたかを、数量的・分析的に割り出せる(解析出来る)ようになる事を意味し、その分のエネルギーを数値的に「供給」出来るようになる事をも意味するのではないのか?

 この事を上述の「動いてくれるか?」という問題の解決の糸口に出来ないか?そう思えてくる。

 それはゴミを扱うだけではなく、ゴミについての「数値」とそれへの分析に伴うリニアな時間を扱う「経験」が日常生活に参入してくる事を意味する。

 そしてその供給が無償で、あるいはポイント式で行われるようになったら良いと思うのであるが、どうであろう?

 例えばアナタは10ポイント分、再生エネルギー醸成に協力して下さったから、コレコレこれだけの電力を支給します、となる。

 即ち、ちゃんとゴミ分別すれば、その分別されたゴミで、これだけの数量、電気代、ガス代がお得になりますよ、というのが明示されれば、多くの人が有料制であっても、更に個人情報をめぐる煩わしさがあっても、無線ICタグを付けたゴミ収集に賛同し協力して下さるのではないか?

 

 してみれば、ゴミの中身の(科学的な)解析度の精度の上昇によって、例えば或るエネルギー再生のマシーンでの再生度の測定の信頼度が変わってくる。

 その信頼度を最大限に上げつつ、このゴミから、これだけの再生度、と数値化出来るようにする。そしてその科学技術的精度によって、その再生度を正確に理解して、常に住民にそれを説明し、情報伝達する事によって、ゴミ分別率を上げて頂く。

 そして結果的にゴミ減量を成し遂げる。

 

 こうした事は可能かどうか?

 

 これらの事を、別の側面からもう一度言い直せば、或る住民のゴミの中身と運ばれた先、再生利用のされ方が、無線ICタグによって、かなりの正確さで「追跡調査」出来るかもしれない事を利用するという事でもある。

 勿論、収集者による啓発によって、損得勘定を超えた市民1人1人の倫理、「良心」を改善する事でゴミ分別をして頂く事の大切さから、我々は片時も離れてはならない。又一方で、上述のプライバシーへの真摯な問題意識を持つ良心をも忘れてはならない。

 しかし、せっかく利用可能になりつつある科学的・技術的革新によって、人々の損得勘定と、そこでの「欲望」にある程度寄り添う中での、ゴミ分別とその事でのゴミ減量を検討する事も有意義ではないか?

 この「良心」と「欲望」の重ね描きは、どのような原理によって可能であろうか?

 

 更に前号掲載の(1)で述べた、ブラックボックス化された業務委託によって、回収してはいけない時に、例えば事業系ゴミや不燃ゴミを回収してしまっても、そうした悪事の証拠が残りにくい、という悪弊を、今述べたような「追跡調査可能性」によって防ぐ事も、場合によっては可能ではないのか?

 

 そして何よりも、そこに(1)での記述もあわせ、これまで述べてきた「経験」、「経験的」という概念はどう作用するのか?

 即ち、先述のような数量的分析に伴うリニアな時間を扱う科学的行為の「経験」と、収集者の長年の「経験」、そして住民が日常生活から出していく際の「経験」。

 これらがどう重ね描かれるのか?

 

 ここで挙げたいくつかの問いは、今後の課題として探究したい。

 先述の2つの重ね描きを併せて考えつつ。

 

 

〈註〉

 

〈1〉

 

 無線ICタグ(RFID)について、インターネットにあった「RFID Room」というサイトには、以下のような解説がなされている。因みに、RFIDとは、「Radio Frequency IDentification」の略だそうである。

 インターネットで調べると、「Radio Frequency」は「無線周波数」、「IDentification」は「識別」でという意味であるそうである。

 

 「RFIDとは、電波を用いてICタグの情報を非接触で読み書きする自動認識技術です。複数のICタグを離れた位置から一括で読み取り、瞬時に個体を識別することが可能です。

例えば、ダンボールに梱包された商品を箱の外側から読み取ることができ、検品や在庫チェックなどの作業効率がアップします。

小売、製造、流通、文教、サービス、医療などのさまざまな分野において、RFIDは今後さらに期待される技術です。」

 「ICタグ・RFタグを付けることで、RFIDリーダーの電波の届く範囲にあるモノを、ダンボールや袋に入っている状態でも識別することができます。

複数アイテムを同時に識別できるため、商品の在庫管理や棚卸など、バーコードに変わる管理手法としてアパレルをはじめさまざまな業界で導入が進んでいます。」

 

 又、やはりインターネット上の、「モノの管理のヒント」サイトによると、

 「ICタグとは、電波などの無線で通信する機能を持ったタグのことで、無線タグ、無線ICタグ、RFタグなどさまざまな呼び方をされています。『電波によって個体を認識・識別することができる』のが特徴です。」

との事である。

 

〈2〉

 

 無線lCタグには、金属や水分に弱いという欠点がある。

例えば、インターネット上のTRYETINGサイトの「ICタグを活用した在庫管理とは?メリット・デメリットも解説」には、以下のように書いてある。

 「ICタグは電波で情報を読み取る性質のため、金属や水に弱いというデメリットがあります。そのため、金属製品にICタグを貼った場合、もしくは金属の多い環境では読み取り精度が低下する可能性があります。また、水分の多い製品に張り付けた場合は、読み取りエラーが起こることが考えられます。ICリーダーとICタグとの向きによっては情報を読み取れないこともあるため、100%の精度になるとは限りません。」

 この欠点は、例えば可燃ゴミには、水分をたっぷりと含んだものはいくらでもあるし、雨が降った後のゴミ集積場のゴミ袋は、ずぶ濡れの事が当たり前である事、不燃ゴミには当然金属が含まれることが多くある事を考えると、ゴミ収集への利用に際しては、致命的であると思われる。

 この欠点が、いずれ克服されることを前提に、私は上述のような議論をしている。

 

 

 

(3)小括的問題提起

 

 

 繰り返せば、これまで証拠が残りにくい、というゴミの特性が故に、前号掲載の(1)で述べた相互承認の難しかった側面が、(2)に書いてきた、「追跡調査可能性」によって、少しは変わり得るかもしれない(良い方向にばかりではないかもしれないが)、その可能性を私は考えている。

即ち、回収されたゴミが、如何なる内容で、どこに運ばれたかを、(場合によっては)数量的に分析可能にし、追跡可能にする事を、収集者が故意か錯誤によって、誤った収集をしている事のチェックにも使用したい。

 更には、住民が良心をもってゴミを分別しているかを見極め、もししていなければ、収集に際してはじく、という事を、収集者自身もきちんと良心をもって行っているかをもチェックする。

 ちなみにここでは、こうしたチェックを収集者同士で行う、という事が重要である。

 

 又上述の追跡調査可能性によって、同じく上述のポイント制の電力供給を受けられる、という「得」を設けることで、住民のゴミ分別を促進し、その事によるゴミ減量を実現する。

 謂わば収集者、住民の「良心」を問う事と、「得」したいという「欲望」を同時に重ねる事を私は考えている。

 それは自然のシステムにおいて、生産ー消費までのみではなく、廃棄ー回収ー再生をも視野におさめる中での新たな重なりであり、無線ICタグという新たな技術とその社会的連関において、(1)で述べた、新しいNature(自然・本性)を模索する事でもある。

 それは決してただ手放しに新技術を礼賛するのみではなく、その負の部分の認識をも含めての模索でなければならない。

 

 しかも加えて、ここには収集者と住民の、ゴミについての「情報」の共有という事も含意される。更にこれまで一般住民は、自分のゴミ出しが、広い自然や社会のシステムにおいて、どう位置付けられるかの情報を知り得る機会がなかったが、それを知ることが出来る事によって、収集者と住民とが協力し、相互承認する事は可能だろうか?そういう可能性をも私は考えている。ひいては、収集について仕事を請け負わせられる「行政」と住民/市民が、flatに相互承認する事をも。

 

 ゴミについては、専門のゴミ収集者と比べれば、ただの素人と位置付けられる事が多かった一般住民/市民が、収集者と共に、ゴミについての専門的かつ個々の事例に沿った知識・情報を共有する中での、そうした相互承認の可能性を探るのは、決して無意味ではないのではないか?

 市民自身の所有するゴミへの「情報」・「見識」、あるいは市民でも知り得る、言葉のラフな意味での一般的なゴミの情報(を増やす事)によって、行政と市民の相互作用を起こすべきである。

 思えば行政の枠において、廃棄物の専門家、科学者が協力して収集計画をたて、それを実行する、量的、質的に無限の可能性があるゴミを、有限の「時間」において回収していく、というプロセスがあるが、そのプロセスでの何らかの困難を乗り越える為の「情報」があった場合、その情報を、市民と行政、ひいては収集者同士で共有した方が良い。

 こうした事を踏まえた上で、(1)で書いたような、収集者同士の「相互承認」という事と、収集者と住民の「相互承認」という事とが、同時に成立する事を、上述の追跡調査可能性を追求する中で模索する事は可能だろうか?

 あるいは、(1)で書いた事に通じる意味では、ゴミ収集初経験で、謂わばゴミについては住民と同じ程度の知識、同じような視点を持つ者と、或る種のベテランの収集者との間でも、flatな相互承認をする可能性をも探る。

 そうした中で、ゴミ収集人もただ行政のやり方に上手く従う事ばかりを考えず、どの収集人でも(ゴミ収集の現場での住民とのコミュニケーションや、収集者自身の属する地域の自治会にて)知り得る、ゴミについての、市民の「情報」を、更にはその情報を受け入れるプロセスを顕在化させる。

 

 一方で、そうした情報を取得出来る事に纏わる形で、ゴミを大量に出せば出すほど、損をする主体(個人であろうと、企業であろうと)を生じさせる。

 個人であろうと企業であろうと、いかなる主体でも、ゴミ分別をせず、ゴミを無駄にたくさん出せば、総体としては損をする、という枠組みを、一方でそのように「情報」取得によって得をする人を作り出す事で、生じさせるのである。

 

 それはちゃんとゴミ分別/減量に貢献した人と相対して、ゴミ分別をせず、ゴミ量を増やせば損をするという枠組みを設ける、ということでもある。

 更にその中で、早く、大量のゴミ量を捌き、一方的に一律的にゴミ仕事を片付けるのではなく、なるべくゴミ量を減らすべく、(地域、生活世界の)住民/市民の「情報」、知識、意見、立場を知る事のプロセスを、上で挙げてきた多様な主体間で相互作用的に進むようにすること。この事を推進せねばならない。

 

 これらの文脈での、先述の無線ICタグという技術の良心的利用、良心と相互承認という事の無線ICタグによる促進。これらは可能か?逆にどのような弊害がもたらせられるが、考えられるのか?

 そしてその中で、今回の論考で繰り返し述べてきた「経験」はどう位相を変換する可能性があるのか?

 

 私はこれらの事を、更に考えてみたい。