「西洋」について(3)(フランスに関して)

山本幸生

 

 そこでまず現在私が「西洋」の中で一番興味を持っているのだというフランスについてであるが、とりあえず断っておきたいのは(まあどうでもいいことかもしれないが)先に「無関心と嫌悪」と言ったように、私はフランスに対して何か「憧れ」のような気持ちは今も昔も全くない、ということである(かつて私がフランスに対して持っていたイメージというのは、かの赤塚不二夫の「イヤミ」的なある種戯画的なものであったし、現在ではさすがにそうしたステレオからは離れているものの、いわゆるよくあるような「フランスびいき」というのでは全くない)。

 

 それどころか、フランス(というかパリ)には何度か行ったが、どうしてもあの街の雰囲気に馴染めないのであって、最後に行った時は何か鬱々とした気分で彷徨い歩いたのを覚えている。。どうも体質的にあの世界にスッと入っていけないのだ。

 

 まさにそうした「違和感」こそ私がフランスに興味を持つ一因なのかもしれないが、より「思想的」な要因としては、フランス文化というものが、いわば「自然物としてのナマの人間」というものからは遊離した、極めて人工的な、言ってみればナマの人間を宙空から取り囲むように俯瞰する「ダイソン球」(注)のようなもののように思われるからだろうと思う。

 

(注)

ダイソン球(ダイソンきゅう、: Dyson sphere)とは、恒星の殻のように覆ってしまう仮説上の人工構造物。恒星の発生するエネルギーすべての利用を可能とする宇宙コロニーの究極の姿と言える。名前は高度に発展した宇宙空間文明により実現していた可能性のあるものとしてアメリカ宇宙物理学者フリーマン・ダイソンが提唱したことに由来する。(ウィキペディアより抜粋)

 

 もちろんフランス人の「人間」に対する関心が並々ならぬものであることは知っているし、映画も文学も、そしてもしかしたら哲学も「人間」に満ち満ちているのであるが、ただ私の感覚からすると、それは「人間性」というものの中にどっぷり浸かった形での「関心」ではなく、何か「鳥瞰」的というか、常にちょっと浮いたところから「引いて見て」いる、という感じがして、そこがまさに「ダイソン球」的な印象を与えるわけなのだ。

 

 私自身の立場というのは、非常に単純に言ってしまえば、「世界全体」というものの周り?にそうしたロジカルな「ダイソン球」を構築するということであるわけなので、そのイメージと「宙空文化としてのフランス」というのが妙にマッチングしてしまっている、ということである。むろんこれはかなりの「誤解」なのだろうが、それはそれとして笑。

 

 私は現在においても将来においてもフランスに行きたいというような気はまったく起こらないのだが、文字や音、映像などで「遠隔的に」接する、ということそのものが、まさに「ダイソン球」としてのフランスの「コア」に迫ることに他ならない、という風に思っている次第である。

 

 要するに私の「フランス文化」観というのは、常に「ナマの人間」を見てはいるけれども、それは既に「宙空」に浮いた人工物の内部に溶け込んだ形で俯瞰的に「見ている」ということから必然的に「知性的なもの」にならざるを得ない、つまりは「知性に拘束された」文化だ、という感じであり、そうした構造に対して私自身が非常な「親近感」をおぼえる、ということなわけである。(続く)

 

 

主宰Facebookグループ「哲学、文学、アートその他について議論する会」