今の人にとって、本は生きているか

北條立記

 大量の出版物があるが、活字離れとも言われ、しかしネット空間に文章は溢れている。

 沢山の書籍が出版され文章が書かれているにもかかわらず、それに見合う形では、社会が活性化されていないように見える。

 その意味で、今の人にとって、本は生きているだろうか。

 本を作る意味、本を書く意味、本を読む意味。いずれが今、本が生きるようにする上で考えることが大事であるかといえば、本を作る意味ではないだろうか。

 本により社会が活性化されないように見えるのは、本の作り手、つまり出版社や特に編集者において、本を作る意味を問い直すことが足りていない結果ではないか。

何が問題か

 おそらく、文章を書き、文章を読む人がいないからいい本がない、というのではない。

 紙の本にしても、ネット上の文章にしても、大量に出回っていることからすれば、書き手と読み手は沢山いる。

 しかし何か空回りし、中身が薄い本や文章ばかり出回っているように見える。それは書き手と読み手の問題というより、書籍や記事の内容の企画が練って行われておらず、他の出版物をただ真似して、何となくこういう内容なら人目を引くだろう、という程度の感覚で、書籍なりウェブ記事なりを乱発している、編集者という作り手の問題ではないだろうか。

 今の時代は、出版に限らず、飲食店にしても、音楽にしても、もろもろのビジネスにしても、多少人目を引いている他の人がやっていることを、それを模倣して行えば、自分も何かをやっている感を得られる、という程度の感覚で、飲食物を提供し、商品を作り、記事を作っている世の中である。

 とりあえず何かやっている感を得るために、SNSに投稿し、他を引き写しただけのまとめ記事を書き、というのが今のウェブ空間である。

 もちろん、ただ与えられるがままに商品を購入し消費するだけではなく、少しでもクリエイティブなことに取り組んでいる側面も、それらにはあるだろう。どんな内容でも、自分で文章を書けば、それはある種のクリエイティブな活動ではある。

 しかし、本当に創造的なものとは、引き写して少し言葉を変える程度のものではなく、人が作った出来上がった製品を写真に撮りそれに感想をつけて投稿する程度のものでもない。創造的な文章とは、既存のものを参照することで内容の奥行きを持つが、人間や社会のある根幹となるものを独自の視点で捉えて書かれているものだろう。

 そこにおいて、一見クリエイティブなものと、それに留まらない本当にクリエイティブなものとの違いがある。

 世の中の出版物は、とりあえずは編集者が企画のため何らかの頭を使った上で作られているのだろうが、そのような創造性を持たない、焼き直し的なものにも溢れている。

 基本的に本が出版される上では、書き手が原稿を書くだけではなく、編集者が出版物を企画し、それに見合う書き手を探し、原稿を読んで意見を行いという過程があり、本は編集者が介在することで出版される。

 そうすると、編集者が人間や社会の根幹に手を触れるような問題意識を持っていなければ、そのような問題意識の本は作られず、社会において生きるような本は出版されないことになる。

 だから、今の人にとって本が生きるには、編集者がそのような本を作ることが必要といえる。

生きている本とは

 では、人にとってこの本は生きているといえるような本は、どういうものだろうか。

 そのような本の側面とは、それを読むことで、そこから派生して読み手がいろいろなことを考察していくのに役立つとか、読み手の物事の考え方捉え方を単に誘導するのではなく自発的に考えさせるとか、具体的な知識を教えるというより物事を考える思考の感覚を与えてくれるもの。

 しかも、その教えてくれる思考の感覚が、現代世界において独自に必要な感覚である時、その本は生きていて、価値を持つのではないだろうか。

思考感覚について

 現代に独自に必要な思考感覚とは、たとえば、物事をいい悪いで単純に分けて分かりやすく捉えようとする、AであってBではない、AをとるかBをとるか、という二分法ではなく、AでもありBでもある、AでもなくBでもない、といった思考法。

 あるいは、カテゴライズされたものの外のまだ名付けられていない領域を捉える感覚。つまり、LGBTQAI+という時の、+に当たるような、カテゴライズしつつも、「その他」の存在の可能性を考慮し続ける思考感覚。

 ならびに、哲学の古典でも説かれている理性批判というか、「こう考えるのが正しい」「こう考えるのが必要だ」といいながら、その説く内容が客観的ではなく、自分たちの欲求に合わせて考えているだけであったりするという、「客観的理性的な衣をまとった押し付けの考え方」に、自分自身が陥らないようにすること。これはどの時代でも重要だろう。

 また加えて、人間というのは、人と共有して盛り上がれる話題に飛びつき浸りやすいものである。いい例が戦争を一体で讃美するようなものである。誰かをグループで虐めするというのも似た現象だろう。そのように、人との一体感にとらわれる結果、人を傷つける行為を行うのも人間である。

 人との一体を感じて盛り上がる。社会においては、要注意なことである。

 つまり、自分の持つ感覚への批判をする吟味をする思考が必要だろう。

 このように、現代世界において必要そうな思考感覚は、いくつか挙げられる。

 その意味では、思考感覚の探求をした本は、今を生きる本になるかもしれない。

現代社会における思考への集中のなさの中で

 何か物事の考え方も、捉え方も、人生観も、日常の行動も、ふわっとしてしまい、拡散的な感じで、惰性で、何となくで、しかしそれをつぎつぎと持ったり行ってしまったりする現代社会がある。

 その中で、日常的なことにも抽象的なことにも思索をし、物事を考えることに集中し、思考が自分の中で収斂する感覚を持ち、そして創造的な考えを生み出していく。

 そのためには、読み手にとってはいろいろな本を読み漁って考えるということも大事である。

 が、それよりも、書店に行けば大量に似たような本が溢れる中で、本当に思考に刺激を与え、思考の感覚を教えてくれ、読み手が本を閉じた後も頭が活性化して、いろいろなことに考えを巡らして、頭が冴えて物事のそれまで気づかなかった側面に気づき、生きる上でも社会を作り上げる上でも先へとつながるクリエイティブな考えを嫌でも思いついてしまう。そのようになるような、人間の思考の幹に刺激を与えるような書籍が、編集者の企画により生み出されることが大事ではないだろうか。

 今、社会において知が停滞しているのは、思考に刺激を与えない散漫な内容の、思考に耽溺することで生み出されているわけではない、書店で買ってみても読書意欲を喚起しない本に溢れているからではないかと思う。

 読んだ時、目が覚め、意識が集約され、頭が働き出し、本の方からぐいぐい読ませようとしてくる、部屋の中にあって強い吸引力を持つような本こそが、生きている本ではないだろうか。