連載小説『天女』第五回

南清璽

 

 あの日のこと。令嬢の尊父からあの出奔の計画を糺されたときのことを思い出していた。

 伯爵は既に応接間のソファーに座していた。決して、威厳を示さず、むしろ、しとやかといえた。そして、いつもの深みのある落ち着いた物言いが始まった。それは、御令嬢の出奔に関してのものだった。だが、言葉として、脳裡に刻まれはしなかったのも確かだった。

 それもそのはずで、実はその折、想いが逡巡していた。この出奔にあたって、いろいろと算段したことが。まずは、八ヶ岳山麓に身を潜めてもらうことにした。そこには、Kが管理する別荘があった。使わせてもらうについて、不本意ながら承諾が取れるとの確信があった。なぜなら、Kにしてみれば、音楽学校を卒業している私が、何かと有用であるからだ。現に彼からの依頼であった伯爵家の令嬢のピアノ教師を務めている。だとすれば、無下にはできないはずだ。むしろ、無頓着な様子を呈するだろうと思えた。だが、その一方で、そう長くは滞在できないのも了解していた。それどころか、第一、生活の糧というか金銭の工面がままならなかった。私のわずかな蓄えとKより提供される食糧では過ごせるのは、数日に過ぎない。もちろん、これは、承知していたという主知的な面より、いわば、感覚に近い悟りであった。だからという訳ではないが、あえて、Kに告げるまでもないことだと考えてしまった。この計画が如何に無謀であるかを。

 あの日、そう過日のことだ。K宅を訪れていた。それというのも、令嬢から出奔の手引を求められていることを打ち明けるためだった。この日のことでよく憶えていたのが、桜材の立派な座卓だったことだ。そうして、細君が淹れてくれたお茶はとっくに冷めていたことも。彼は、紬をまとうものの、全くくつろぐ様子など見せず、背筋は伸ばし座椅子に腰掛けていた。別段、威圧しようと言うものでもないが、つくり笑顔ともとれる薄笑みに、やや、嫌悪を覚えていた。そうして、くだんの八ヶ岳山麓の別荘の使用に言及した。

「一つ尋ねたい儀がある」

 その梗概を述べ終えたときだった。Kは、私を質した。それを受け、「何だね」といささかいぶかしさを覚えた心情を顕にした。

「どうして、全面的に頼ろうとしない?」

 いわば、金銭的な援助を、相当な期間、そこで生活できる様に見てほしいということをあえて言わなかった。

「請け合わないのが、分かっていたからだ。」

「そうか。」

 Kの、その言葉に作為を感じずにはいられなかった。やはり、私のよみに間違いはなかった。

「君の態度からして蔑んでいることが伺われたからな。」

 だが、Kは、表情を変えなかった。

「それは、心外だ。」

 悟っていた。私に如何なる想いを懐いているか。

「やはり、蔑んでいるのだろう。異性に対し、盲目的な献身を施すことに。」

「確かにお前らしくない。」

 Kはぽつりとそう述べ、沈思する。ただ、この方が楽だった。やはり、御令嬢に何らかの恋心があるのだと詮索されるとなると、どうしても、高潔に装い、聖人たらん素振りを示さねばならなかったからだ。

「むしろ失望に近いものを感じているよ。」

 それにしても興味を覚える物言いだ。

「失望?」

「耽溺している訳でもないだろう。」

「否定はしない。」

 聖書にある「マテリアルな関係」という言葉を思い出していた。それになぞらえるものではないが、そこにある高貴さと、無償、すなわち、これが「耽溺していない」の修辞で言い尽くせる、そうして、そこにKの完全に蔑んでいない心持ちを察していた。

 だったら……。想定される結末がそうであれば……。やはり、令嬢の出奔を手引きするのを見合わせるべきなはず。しかし、そうはできなかった。だが、それは俗にいう、何かに取り憑かれた様な次第ではなかった。むしろ、ある意味、啓示を得ていた。つまりは、これ当為に違いないと。ふと、令嬢の均整のとれたて麗しさに、いわば、美意識として、それが妙に安定性に欠ける面があると思えてならなかった。付言すれば、身をやつし、破滅に向かうことが、求められているかの如くのだった。

 もしかしたら、たとえそうなったとしても一つのメタファーの域に収まるのではないか。つまりは、令嬢が何某かの翳りを帯びるのは。むしろ、その翳りによって本来の、美しさを覚醒できるためのものではと想う次第ともなった。だが、一方で、顧みて、自身の歪んだ面も、そういった思考からより感じる次第となっていた。

 述べようものなら、明確な美意識だったと臆面もなくそうできたであろう。でも、否定できない一面もあった。そう、羨みからという。その身分の隔たりが、思慕と意識されない深層にある自我を造っていた。私は、意識して自己の殻に閉じこもり、令嬢への思慕を心底に押し留めようとした。それが最善だった。

 ふと、令嬢の心持ちが気になった。令嬢は、行方をくらました結果、伯爵家の者が驚き慌てふためくのを愉快に感じるのであろうか。ただ、その様な愉快さを感じると思量するのは、自身が俗なる人間に過ぎないからだとも思えた。むしろ、激しく後悔し、罪悪感に苛まれる次第になる方が成り行きとしては、正しい見方の様にも思えた。

 Kは、承諾してくれた。例の八ヶ岳の別荘を使用させてくれる件だ。もっとも、そうなるものと考えつつ、いささか確信を持てなかったのも事実だった。むしろ、断ってくれないかという想いも存していたぐらいだ。やはり、心底においては、不安が残置されていたのは否めない。

 ただ、そうでありながら、反面、実行するにあたり、主知的というべきあり様で、どういった次第で、執り行うべきかを思案していた。そうして、自分が、相当、あこぎな人間だと思へるぐらいになった。確かにこの出奔において試みようとしていることは、大胆そのものだ。それにも増して、私の企てに人々が、翻弄され、あたふたすれば、これほどない愉快さを覚えるだろう。

 ある種の陽動作を講じることにした。すなわち、事態として令嬢が誰かに連れ去られたふうに装うという。そうした場合、おそらく、令嬢を連れ去った人物を特定すべく、捜査を行うだろうし、おおよそ、特定に能わない人物を捜しだすのは、徒に時間を費やす始末になろうと考えられたからだ。

 そのために変装を企てることにした。少し前に読んだ小説だ。何でも大学時代の同級生が、しかも、瓜二つの様に似ているその者が亡くなったと知り、土葬の慣習であることを思い出し、誤って生きたまま葬られたふうに装い、その者になりすますという話だった。ただ、それらの事情を知るため、その地を訪れるにあたり主人公は変装を施すのだった。

 確か、顔の輪郭を変えるために含み綿を使ったはずだ。そうして、これを試みる。確かに。鏡に映した自分を見るとそれなりに変わっていた。だが、これだけでは変装を為したとは言い難い。その程度の想定はできていた。それ故、こうなるものと考え、予め友人を通じて鬘と伊達メガネを借りていた。その友人とは、音楽学校からの友で、当初は声楽を学んでいたが、学校を卒業してからは、歌劇ではなく、芝居というか、新劇の世界に身を投じた者だった。私は、適当に、仮装パーティに使うなど、適当に取り繕い、それを彼の所属の劇団から借り出したのだ。

 含み綿と鬘、そして、伊達メガネ。大丈夫。十分翁に見えた。これが耐えうるものか、私は、上野の界隈を、この変装で遊歩することにした。だが、思いの通りだった。音楽学校の近くとあって、多くの友人、知己とすれ違ったが、その誰一人として、私のことと気づかなかった。丁度向こうからピアノの師が、現れた。良い機会だった。自分のこの変装が如何ばかりのものか試すのには。私は、師を認めるや深々と頭を下げた。

「失礼ですが、どちらかでお会いしたことがあったのでしょうか?」

私は、

「ええ、先生のこの間のピアノの独演会参りました。ほんと楽聖の奏鳴曲の演奏は素晴らしいものでした。」

と述べた。

「それはどうも。とても光栄です。」

「特に作品90は、秀逸でした。よくあそこまで譜読みをできていらっしゃると感心致しました。」

「ピアノをお弾きになるのですか?」

「正直、下手の横好きです。」

「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「先生の様な大家を前にして名乗るのは少々照れくさく存じます。」

 これ程までに。私は、正直思ってしまった。そう、こんな風に卑屈になれる御仁であったということを。師は教授の肩書を持っていた。だから、私は、この師を、敬いから、教授と呼ぶことにした。

 もちろん、その教え方は、威厳めいたものではなかった。ただ、少々、修辞が多く、その大仰な面がどことなく陳腐に思えたのだ。例えば、飛んでいる蛾の翅を包み込む様な仕草でレガートを、という具合に。流石に吹き出しはしないが、その陳腐さは否めない。

 出奔の決行は、教授が実習を施す日のこの時間帯にしよう。そうして今日の様に話しかけて、令嬢を連れだっていることを印象付けよう。きっとあの教授のことだから、何かの所以で警察に聴取でもされたら、例の調子で大仰に説明するに違いない。

「君ともあろう御仁が。」

 それは、叱責するものでも、なじるものでもなく、どこか感慨を伴うもの云いだった。そう、あの日の伯爵の私に対するものいいが。

 この出奔の計画は、事前に発覚してしまったのだ。そうしてことの真相あるいは私の真意を確かめたいとのことで、応接間に呼ばれた次第だった。その折、伯爵はさっきの言葉を私に発した。

 更には、私の計画のあらましを了知している次第も告げた。つまりは、八ヶ岳の友人の別荘に身を寄せることも、令嬢を連れ去るにあたり私が変装を施そうとしていた点も。だが、動機を質すことも、それが如何に稚拙であるかという批判もなく。ただ、次に述べられたことには、音楽家としての自負、研鑽に虚無があることを知らされた。

「ピアノの教師としては、相当見込んでいました。現実に君についてもらってからは、ピアノの音は、かなり変わったというのに。それだけに、かなりの謝礼を払わしてもらったんですが。非常に残念ですよ。正直、幻滅しました。もう、言わずとも分かっているでしょうが、辞めてもらいますよ。」

「女中から聞いたのですか?」

 詮無いことだと分かっていた。だが、ある想いがよぎっていた。私は、この企てを考え、その準備に追われる様になってから、女中の眼差しに尋常でない、私への敵意といえるものを感じ取っていた。

 一方で、その女中の、並々ならぬ伯爵や令嬢への忠誠心の顕でも在ろうと思えたると、その女中の根底にある自己を顧みない貴徳さ、それに酔いしれる人間の強さを感じる次第となった。

「もちろん、答えなくていいものなんでしょうが。君も知りたいだろうし。

娘からですよ。告解してくれたんです。やはり、この私に悪いと云って。」

 裏切られてという想いはなかった。むしろ、必然にあったと想いたいぐらいだった。でも、そこには実態のない、一種の諦観じみた想いに過ぎないことも了知していた。だから、その脆弱な面も感じ取っていた。そうして自問するのだった。裏切られたのだと。それに気づかないのか?そこにあるべきは自嘲することなのだろうけど、そうともならなかった。やはり、生来の自己性愛の所以ともいえる想いもした。これは無償なんだ、美しいものなんだと。

 伯爵は、その際に、「お父様にいけないことをしようとしていた」と御令嬢が述べていたことも付言した。

 鷹揚にも、この歳末までの授業料を支払ってくれた。もちろん、それが体のいい和解金であったのも事実だ。