詐欺師糸子(2006年夏~2007年冬)

タコウ タカシ

 黒い話が多いので、明るいイメージのあるほうへ。

私は、詐欺師に狙われたことが、ある。それも女の詐欺師グループに。

 さて、どこから話そうか?そう、あれは、母の介護が始まった頃のこと。2006年夏。いつもの酒場、西ヶ原の酒処「春」にいた。最初は、二人の女性で、来ていた一人は、民青と名乗った。二人は、NGOの勧誘をしてきた。私は、興味がわき、付き合った。すると、前の席にいた糸子という女性が、突然、歌いだした。ビートルズの「Lucy in the sky with diamonds」を。俺は、この歌が、LSDの歌と知っていいたので、カマかけてきたのだと思いだす。しかし、何の意図かわからずに、いた。

 ややあって、今度は、「レインボーマン」の歌、「インドの山奥で、修行した。」を歌いだした。何故、私と関係する歌ばかり、歌うのか? しかし、これは、面白いことになったと考えて付き合うことにした。早速、彼女たちのNGOに入って、揚げることにした。それに、民青のオンナの子が、本物であることは。話から、分かったから。

彼女たちは、毎週、来るようになった。酒処「春」に。さて、小説風に行く。
彼女を雇ったのは、ある名家の爺や。はっきり言おう。自動車整備工場会社の大手「虎坂」の執事である。

なぜ、そのようなことに、なったのか?

それについて、話すのが、この物語のすべてだろう。

 私は、97年ごろ、池袋で、キャバクラ研で知り合った早稲田の相棒と、いつものように、散歩していた。このキャバクラ研というのは、大学時代に、私が、でっち上げた大学の珍サークルで、一時、テレビをにぎわせた。確か、1977年だったか?それについては、またにしよう。

 そう、そのキャバクラ研の親友、相棒と一緒に、池袋のロマン通りのほうの交差点で、待っているときの話だ。信号機の向こう側にきれいな女の子が見えた。
たまたま、暇で、隣の相棒を、驚かせてやろうと思い、ナンパを思いついた。

 交差点の信号待ちで、すれ違いざまに声をかけてやろうと、思った。果たして、信号は変わり、向こう側にいた女の子、女子中学生だったが、だんだん、近づいてきた。
彼女は、友達を連れていた。
すれ違いざまに、

「ホテル行かない?」と一声かけた。

とっさに、彼女の隣の友達のオンナの子が、

「気違い!」と言い返してきた。

「すると、感激したか、こちらの相棒が、「尊敬された」と補うように言った。

「これが、いけなかったのだ。ナンパされた彼女は、恋に落ちた。
のちに、そう思ったのだが。

「そして、お嬢様の様子が可笑しいと、家では気づかれた。
そして、執事の出番。
色々、想像されるが、この執事が、先代で、自動車整備会社を作ってきた人なのだろう。

「すぐに、興信所に頼んで、私を見つけ、探偵社に頼んで、詐欺グループを作ってもらったのだろう。詐欺師は、大概、探偵社を使うという。

いや、違うらしい。
すぐにではない。
何年か、掛かっている。

少し想像だが、私は、糸子をそう呼ぶ。

探偵社の所長の娘。

 メンバーは、彼女、所長、親友の雑誌社の編集長を名乗って後に現れた女子、母親と言って、現れた中年のおばさん(この人は、その詐欺のテクニックで、酒処「春」の経営者夫婦を、随分、抱き込んだ)、雇われた父という恰幅の言い男の5人でできていた。

ナンパしたのは、97年。糸子が、やってきたのは、2006年の夏。貧乏な服装できた。なぜ、来た?

それは、私は、もう一度、そのお嬢さんに会っているから。

詳しくは長くなるので、割愛したいが、少しだけ言うか。

 要するに、彼女は、美大へ行き、私と同じ、現代美術へ触れていた。ある日、大塚の画廊へ行った。彼女は、東武東上線のときわ台に住んでいた。つまり池袋も、大塚もそば。私は、そんなこと知らなかったが。

 私は、その日は、少し、調子が悪かった。いつもの画廊巡りのつもりで、通いなれた大塚の画廊ストライクゾーンへ行った。

 その画廊ストライクゾーンのオーナーは女の人で、ニューヨークのソーホーから、少し離れた所にあるカランビア大のイベント科を出ている人だった。

頑張り屋で、昼夜働いていた。

 昼の画廊経営のために、夜、バイトで、スナックでも働いていた。たまに、息抜きをしに、バイクで疾走すると言っていた。最初は、共同経営だったそうだ。異口同音に、共同経営は、難しく、一人抜け、二人ぬけしたそうだ。

 その画廊は、坂の途中にあって、5階建ての老朽化したビルの中にあった。右側の階段を上がってゆく。つまり、道路から見て、正面右に階段が、見える。木の階段だったっけ?石の階段だったっけ?

上に行くと、右側の壁に、ポスターやイベントの通知のビラやチラシがいっぱい張ってある。

 左側には、机があって、記帳台になっている。中は、割と大きい。と言っても、画廊は知れているが。24畳もあるか?大概、明るい照明をつけて、白いボードあるは、ベージ色の空間であろう。いや、待て。あの画廊、大きかったな。36畳は、あったか?

 私は、いつものように、身勝手な話をした。それに、彼女は、感動した。のちに、彼女は、こういう歌を詠んだ。作品とともに。

「見えない声を聴く、届かない声を見る―泡となり、水に消えゆくその日を待たずに」

時に、2003年。大塚画廊ストライクゾーン。

 かくして、お嬢さんの病気は、また始まった。執事は、本当に動いた。
これが、詐欺を派遣され、詐欺師と勝負させられるにいたる経緯。

 なぜ、私を知っているか?イナズマンを歌い、LSDの歌を歌う。初めから、分かるものだった。随分、知っていた。左翼であることも。劇団人類も。まあ、その後は、また。

面白い?今、思えば、怖いかも。名家に狙われるのは。

 彼女は、いつも、貧しい恰好をしていた。白いタートルネックのセーター一枚という感じ。だった。そう、私は、彼女の紹介してくれた中央アジアネットに、今もいる。中央アジアのNGOで、国連の少数民族問題フォーラムにも参加している由緒ただしい団体だった。
この団体は、2002年位から、ジョン・オニールという人によって、作られた。
いい団体ですよ。ここへ糸子は、潜りこんだ。なぜ?

 それは、この団体が、うちの店上野アメ横コルトのそばに、あったからだ。彼女は、その団体「中央アジアネット」に、潜りこんで、今度は、私の家のそばの人、前回言った民青の女の子と、知り合った。こうして、計画は、着着と進んでいった。

 私が、2003年に例のお嬢さんと、再会するのが、きっかけで、始まった爺やの依頼による詐欺グループの開始。糸が、実際来るのは、3年後の2006年だから、十分予備調査は、しただろう。
さて、このグループとどう渡り合って、私は、最終的に、鈹(かわ)したのかを、以下、話しますよ。

 こうして始まったお付き合い。早稲田の葡萄園とか、区民会館を借りて、中央アジアネットは、中央アジアの人たちと交流会をよく、持っていた。この団体、日本人のリーダーは、二人。男性は、冨田といい、女性は、刈谷という。この両名は、日本のNGOを代表する人で、オニール氏の引き抜きだった。
毎年、国連のフォーラムへ参加するレベルの高い団体と言っていい。
年次総会へも、参加した。糸子氏とともに。何という図々しさ。これが、詐欺師の腕か?
いかがわしい連中の中で、代表の選挙も行われた。それで、二人の名前を知っているのだ。冨田さんと刈谷さん。いい人で、実力派です。
詐欺師ってすごい。

 さて、終幕へ。結局2年は、付き合った。すごいときは、毎晩、飲みに来た。そして、最後に、友達親友を、呼んだ。決め様としたらしい。雑誌の編集長で、200人の部下を、持っているという。初めから、うさん臭かった。このオンナが、気持ち悪いことに、私に、口を開けて、「ア~ンして」などというから、腹が立ってきた。

前の席にいた。隣は、糸子。そこで、糸子が、キャバレーの話しを、し始めた。よく、俺のこと、調べたな。
そして、こういった。

「キャバレーは、フランス語でしょ」と。

いや、違う。前のオンナが、言い出したのだ。

 そこで、俺は、
「ライザ・ミネリのキャバレーという映画は、最後、ナチスが、出てくるから、ドイツでしょ。」と言ってやった。
すると、前のオンナが、間違ったと思って、止まってしまった。
すると、絹子が、私に見えない風に、手提げ袋に手をやり、携帯か何かへ手をやり、信号をうったのだろう。
前の彼女は、止まっていたが、連絡音が聞こえたので、立ち上げって、意味不明の言語を言い始めて、トイレの方へ逃げて行った。
私は、トイレの方へ行った前の席いた彼女について、私の横にいた糸子に、こう言った。

「何語しゃべっているの?スペイン語?」

糸子は、答えなかった。

こうして、向こうの計画は、頓挫した。

しかし、確かに、キャバレーは、フランス語だった。

こうして、糸子たちは、去っていった。
変わった経験をした。
 二度とない経験だと、思った。

さて、この小説を終わらせるにふさわしい話をしたい。
それは、しばしば、登場する、重要人物、爺やである。
先代の執事である。

 私が、始めて、池袋でナンパしたのは、1997年頃だったか?
その当時、ナンパされた彼女は、14の中学生だったと思う。この人の運命を少しだけ、変えてしまったいたずらな思いは、思ったより、高く就いた。さて、爺やの実力のほどを。

爺や、は、二度三度登場する。

 最初は、ナンパから始まるお嬢様の変化への気づき。
それを、現社長の息子-爺やから見れば、に報告し、話し合っただろうこと。
まあ、即、行動はしなかっただろう。
しかし、手配は、早かったようだ。
まず、ナンパの相手を突き止めるために、興信所は、雇っただろう。名家だから、お世話になった興信所の一つや二つはあるさ。

お嬢様の親友も突き止めたさ。
文中にあるように、似顔絵を描かせて、興信所は、私を突き止めていたさ。のちに、糸子を派遣するとき、もう一度使ったと思うが。

 私のその当時の生活パターンを観察させたさ。何の仕事をしているか?
すぐ突き止めたさ。
私が自営業者であることも、上野で、働いていることも。

そして、行きつけの酒場は、どこか?とか。
その情報を、絹子の詐欺師グループの会社、探偵社に渡しているさ。
余りに見事だったのは、私の会社の傍のNGO団体中央アジアネットを見つけたことか?

さて、ここで、再終幕。
興信所の方は、名家にとっては、容易いだろう。よく、わからんが?
わしら庶民には。
問題は、探偵社、詐欺グループの雇い入れ方か。

 しかも、爺や、は、復讐の要素を考えたのだろうか?
女性のいる詐欺グループに頼んだのだろう。それが、糸子だった。
色気のない子だったが。

爺や、は、フロック・コートを着て、たった一回だけ、尋ねたのであろうか?こういう場合の取引は、ボスと対面するのは、一回なものだ。しかし、これは、絶対必要条件なのだ。

そして、予め用意した2つの資料を示した。

一つは、興信所の資料。
もう一つは、私をよく知る同級生から手に入れた資料。
後者に、最初の出会いにある歌,
LSDの歌「Lucy in the sky with diamonds」とレインボーマンの歌の資料があるのだ。

私をよく知るもの。
売ったやつがいる。

どうでも、いいけれどね。

私は、そいつをよく知っているが、まさか、売る?とは、ね。

 こうして、爺や、は、興信所の手配、直接詐欺グループへのアタックをなした。最後に言わば、始めから、フランス・ラカン連盟を用意していたことは、脅威。

それも、1998年から。つまり、私のナンパのすぐ後に、行動を起こしていたのだ。

アーメン。罪深き、わがナンパ。罪深き、返し技。名家は、自在さね?

 後日談。ナンパされた子は、いつの間にか、英語を覚え、学校の教師を京都でしていた。もちろん、許嫁は、京都の人だった。

そう、私とその許嫁の彼とは、後に、出会った。
糸子が、やってきた酒場‐酒処「春」で。
そいつは、御岳大生だった。
少し、太めの男で。座っていた、先に。

いつものように行くと、マスターが、彼を紹介してくれた。

「こちらは、那須大の人ですよ。おなかまの人ですよ」と。

 私は、何気なく、彼の前に座り、「那須大の正門の前に31アイスが出来たね。」と切り出した。すると、彼は、首をすくめたが、答えない。
もう一度、「那須大の正門の前に、31アイスが出来たよね。」と言った。彼は、また答えなかった。

おかしいと思い始めた。私は。

 すると、彼は、「閉めずの門」と言い出した。今度は、私の方が、困った。確かに、そう言うものはあったのだろうが、知らなかった。

 そこで、「あなた本当に那須大?」と言ってしまった。何度か、同じやり取りが、繰り返された。どうも、那須大学ではないと気付いて、やめにした。彼は、うそをついていたし、困っていたのだ。
私が、話題を変えた。

 後に、この人が、ナンパした彼女の許嫁と知った。コンピューターを通して。○○財団近代美術基金。とか言っていたな?
そう、最後に、そいつとは、駒込の霜降橋商店街で、すれ違ったな。
おしまい。

まてまて、もう一つアンコール。
糸子とは、最後に、また、誘った場所がある。それは、画廊ストライクゾーンだった。
もう、西ヶ原の酒場、酒処「春」で、糸子たちを撃退していたから、キャバレー話で。
別れは近いとは思っていた。
最後に、私の世界を教えてあげようと、現代美術へ招待した。
あれは、12月だった。2007年の。

「現代美術は、定義がない。私の相棒、あの池袋でナンパした時に隣にいた相棒に言わせると、
「与田さんに紹介してもらったものの中で、一番よかったのは、クリプキだったけれど、最悪だったのは、現代美術ですね。」と。

 そこで、少し、講釈。私は、勝手に、こう考えていた。

現代美術は、フロイトに影響されたシュールレアリズムの画家たちが、最初で、ここから現代美術へ進化したと、勝手に思っていた。だから、自由だと思っていた。どう解釈してもいいし、どんなものでもいい、と思っていた。だが、画廊が、一般世界からは、遠い世界、高級な場所であることを、僕は知っていた。同じことは、クラシック音楽にも言えるけれどね。あれも、決して一般のものではないな。

 毎週、月曜日になると、会社のレジ締めの後、上野から神田へ向かう。楽しい画廊通い。美術を目指すひとたちの中で、美術を勉強し始めた。
ある日、こんな出会いがあった。
僕は、いつも、オープニング・パーティが目当てで行っていたと言われてもしょうがなかったのだが、なぜって、会社が終わるのが、7時で、画廊は、7時半までだった。終了間際に行って、作品を見て、パーティへ加わった。
作品についての意見交換は楽しいものだった。
現代美術は、見に来てくれる人から、一言言ってもらうのが、いい。
後に、こんな哲学書に出会った。
カントの判断力批判だそうだ。
「天才が、趣味を作り、趣味が社交を作る。」と。
ハンス・ゲオルグ・ガダマーという人が言ったそうだ。
で、私は、この現代美術の社交が、好きになった。

しかし、こうだ。専門家に聞こう。村上隆、曰く、こうだ。

「現代美術は、アンチ・ピカソ。最初は、デュシャン。次が、ポロック。」

ザッツ・オール。
だってね。

 さあ、当日。糸子と舞踏を見た。最前列で。良い踊り手だった。クルクルクルッと空中で、ヒギュアスケートの選手のように回っては、ドスンと落ちた。何度もやった。痛いだろうな、僕は思った。あとで、糸子も、「本当にドスンと、落ちていたね」と言っていた。
そこで、その踊り手さんに、踊りが終わってから、近くへ行って話しかけた。
「今の踊り凄いですね」と。
「あれは、猫の原理です」という。
また、私は、彼が途中で、結跏趺坐して、それを、そのまま、前に倒れながら、足のポーズを返して外す妙技も見たので、それも言ってみた。
「あれって、結跏趺坐ですよね」と。
その時、彼は、ほかの人に呼ばれて、そっちへ顔を向けた。
私の質問は頓挫してしまった。

あの日、糸子は、ひどく満足してくれたのだろうか?
それっきり、会わなくなった。

「いつの時代も、その時代の思考は、その時代に逢わない」

(小林秀雄の「近代絵画」に、ヒントを受けて)

 

 

 

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