舞踊教育法研究家 柴﨑政夫
続いて、私の所属する寺院檀家も紹介します。
秩父札所16番 無量山 西光寺~四国八十八箇所霊場の本尊模刻の回廊堂が建つ。
…この回廊を巡ると、四国八十八箇所を巡るのと同等の功徳が得られ、観音様の功徳と共に弘法大師のご利益も得られるといわれている。真言密教寺院豊山派(長谷寺)
このようにして知知夫は五穀豊穣を祈念し、盛大な祭りを行っている地域です。この地の中村郷に生まれたのが私。本来は井上政夫となるべきでしたが、父の姓である柴﨑を継ぐこととなります。井上家は名主の家、医業の家、町会をまとめる家(屋号:岩田屋)の三家からなり、私は町会をまとめる家の曾孫として生まれました。
11月20日を過ぎたある日、秩父夜祭りの準備に皆が集まる中、5才の私は映画会社からスカウトされます。その日のうちに本家に一同が集まり、スカウトマンとの話し合いが夜まで続けられました。
しかし、結果的に、家系を継ぐ一員として据え置く措置に決まりました。こうして、我が道は「全ての芸道を禁ずる」生き方を押さえ込まれたのです。
この頃の秩父は、絹織物が盛んで、好景気に沸きました。映画会社も5社+洋画配給会社というわけで、秩父夜祭りが近づくと、関係者があちこちに出回っていたわけです。今で言うならば、原宿通りや浅草辺りの縁日でスカウトといった状況でしょうか。
皮肉にも七五三間近なため、記念写真撮影という現実も待っておりました。このような経緯から、その顔は唇をゆがめ、怒った写真のまま。それが精一杯の抵抗でした。←父親はそれを観て、何も言いませんでした。何しろ、父親が敷いたレ-ルですから。
その後、突然「丸坊主にする」と言われました。これは15才まで続きました。加えて、「ボ-イスカウトに入れる」と。軍事訓練、たくましく「お国の戦士」になるようにとの願いを込めて。それでも父は安心しませんでした。「まさか、お味噌のコマ-シャルから声がかかっては来ないか」と心配し続けました。
言い換えると、芸道に関しては、才能面で全く心配しないで済む能力があったということです。
残るは「真面目に勉強しろ」ということで百科事典を購入。ボーイスカウトに関しては、幸いなことに食料班担当で、結構しぶとく、野山を徘徊、食べられるものの区別を学びました。また、10才の時、秩父宮妃殿下の秩父神社御来所の折、拝謁の啓に浴しました。
先祖代々が持つ才能面を押さえつけられながら、家系の継承だけに生きなければならない運命を、わずか5才で決められたわけです。
加えて、ランドセルの色はなんと赤茶色。男子は黒、女子赤色が当たり前のご時世に、どこから観てもわかるようにと、祖父が決めたのが、この色。
さらに加えて丸坊主。これで毎日6年間、学校を往復。弟や妹が嫌がっても同じ通学班なので拒否できません。
今だったらどうなってるでしょうか。これが私が生きた時代。別の通学班からはいつも「かわいそうに」と思われつつ、「あの親と同じにはなりたくない」とささやかれながら、成績は常にクラス代表を維持。困ったときだけ頼まれる存在でした。
とはいうものの、それがどうしてバレエの道へ!?となるから人生は不可思議。当時バレエレッスンに秩父から熊谷まで通っていた女子は3名ほどいました。
江戸時代後期、播州加古川の尾上町養田から兄弟が江戸を目指して旅立ちました。長男は松兵衛、次男は五良兵衛。尾上の松が有名な地域ゆえ、松の字を命名したと思われます。
長男が文化11年53才、次男が文政13年54才没とあるので、それ以前の飢饉から、江戸を目指したものでしょう。
1782~87年が天明の飢饉なので、長男21才、次男6才の時に飢饉が始まり、26才と11才で江戸を目指した模様。
その途中、東山道を通り秩父の郷に立ち寄った際、男系が断絶しかけた井上家の目にとまり、人格を見込まれて、井上家(屋号:岩田屋)を継承するに至りました。同時に、16番寺の檀家筆頭も兼務が義務づけられました。兄弟はこれも運命と覚悟を決めたそうです。
「僕どこの子?」「あそこの家の子!?」→「はい、どうしてわかりますか。」→「あそこの家の子っていう顔してるのもの。わかるわよ。」
それが私の顔。間違っても万引きなどできない。この地域とは無縁の顔をしている。おまけにそれを生かすこともできない人生。これが私の運命と決めつけられたのです。
本家には戦死した長男次男があり、四姉妹の間に叔父一人という構成。この叔父を数えなければ、まるで犬神家の一族と同じような家族構成。その隣家の長男が私。臨時メンバーとしての後継代理。長男武蔵、次男政三→私が政夫。という名に決められたのでした。(仮の御曹司役は10年ほど続きました。)
井上家、柴﨑家とも遡れば、後北条氏の居城である寄居の鉢形城の家臣の家系。土地田畑の継承相続維持を図るため、ハプスブルグ方式とでもいうべき、親戚縁者同士の婚姻が長く続きました。ただ、柴﨑家は明治時代に生糸価格暴落の折り、連名責任者になったため、貧困生活が続きます。
この頃、有名な暴動事件が起こります。秩父町内で富を蓄えた高利貸しに対し、吉田町椋神社に集結した若者達が一斉蜂起。貸付金の棒引きを要求。さらに、明治新政府に対する挑戦のような新しい政府組織を画策します。
これが世にいう秩父事件。西側丘陵にある23番音楽寺の鐘を鳴らし、一斉蜂起の合図としました。彼らは秩父困民等と称し、寺には記念碑が残っています。
明治政府は秩父盆地の外郭を囲み、徐々に進軍。困民党は秩父町を逃れ、西奥へ進軍。その際、農民を駆り出して、小鹿野町、志賀坂峠を越え、鬼石町へ、そして西上州の谷間を進み、十石峠経由で信濃国に進出。佐久郡東馬流(現小海町の馬流駅付近)で、高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅。
主だった指導者・参加者は、各地で次々と捕縛され、約1万4千名が処罰され、首謀者7名には、死刑判決が下されたが、1名は北海道へ、1918年にそこで死去。死の床に臨み家族にその名を明かした。 参照:井上伝蔵
この事件は、1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税[1]の減少などを求めて起こした武装蜂起事件で、隣接する群馬県・長野県の町村にも波及し、数千人規模の一大騒動となった。自由民権運動の影響下「最大の事件」でした。
23番松風山音楽寺は歌手の参拝する寺として有名。針供養←レコード針というつながりです。
さて、10才になった頃、東京オリンピックの準備が始まります。開会閉会式のセレモニー演出は現代舞踊家の伊藤道郎。宝塚劇場の舞踊を担当し、ローマオリンピックも視察しました。ウクライナ人でボリショイバレエマスターから創作民族舞踊バレエを発展させたイーゴリ・モイセエフを日本に紹介した人でもあります。
実弟は俳優座の千田是也。50年後になって、モイセエフバレエの生き残りはわずか。その一人が私だったのを再確認したのは、つい数年前。あの国には秘密がたくさん隠されてます。
時代は、金メダル獲得に向け、様々なスポーツ競技が各地に根を下ろし始めます。私が関わったのは体操競技。逆立ちや開脚から、学校内のクラブ発足に向け、動き始めます。
とはいうものの、地域には地域の考えがあり、当地では剣道と柔道といった日本的競技を重視する動きにまとめられていきます。
こうした流れから、中学校生活においては教師側に目をつけられる存在となります。ただ、成績だけは常に上位の常連でしたので、「いかに私を孤立させるか」という動きにとどまります。進学は当然、他地域の上位高校へ。
その結果、難無く熊谷へ。偶然ながら、その年5月に埼玉県舞踊協会設立。この年からようやく坊主頭から七三分けの髪型に伸ばすことになりました。
この頃の体操競技は「まっすぐ」「正しい姿勢」で始めることが重視されました。今日では、はじめから多数の回転やひねりを加える動作を教えます。体操競技は兵隊訓練。主にドイツ体操の流れを吸収し、同じく19世紀に発足したデンマーク体操、スウェーデン体操の動きも継承しておりました。ちなみに、私の場合、大車輪と逆車輪はできましたが、ひねりはできません。採点競技は時代とともに変化していきます。
埼玉県舞踊協会の発起人は小沢金四郎。規約を定めました。(メンバーには、会長:藤井公、副会長野呂修平。)早稲田大学の卒論で「舞踊美を求めて」を書いて首席を獲得したのが小沢先生。三島由紀夫原作の舞踊化の際「俺の目にかなうほどの美しい男はいないはずだ!」と豪語した作者に、現代舞踊協会会長が「まあ観てみたら。」→見事、主役を射止めたという人。また、オペラ志向だったが肺活量の問題で断念→小森敏の門下生として舞踊家を志したのが藤井公。後に数々の賞を獲得。パヴロワ門下の間瀬玉子女史の教室を継承したのが間瀬桂子・野呂修平夫妻。
こうして、心理表現重視の育成を目指す現代舞踊+基本ステップの美を重視するバレエの合同研究組織。舞踊手育成と振付・教育面での人材育成が始まりました。
歴史的に顧みると、舞踊という言葉は舞と踊の組み合わされた言葉。かつて、明治期に外国語のダンスの訳語として舞踏という語が使われました。舞は回るという旋回運動を意味し,踊(躍)りはおどり上がるという跳躍を意味し,上半身の動きを重視するのが舞であり、足で大地の精霊を踏み、沈めるのが踏とされます。
この区別は難しく、日本では専門的研究家が存在します。とはいえ、東京帝国劇場が設立されたときに、チェケッティの高弟であるローシーが来日し、指導。この時の弟子は世界へ挑戦すべく、欧米へ留学。日本的武道を生かした作品で高い評価を得ました。
ただ、その多くがいわゆる現代舞踊(モダンダンス)として認知される結果となります。→弟子育成→専門的舞踊学校の設立へ。
一方、クラシックバレエは白ロシアから亡命したエリアナ・パヴロワの活動から日本に定着し始めます。戦後、オリガ・サファイヤも指導。洋の東西を問わず、平和を希求するバレエ芸術は次第に日本に根を下ろし始めます。それに呼応するように埼玉の地に舞踊組織が根付き始めました。
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