田中聡
今自分(1969年生まれ)が思索し、模索していることの起源は、自分の10歳位から17歳位の時期の精神的遍歴にある。
時々自分が何者か、分からなくなる時、そうした起源をもう一度十分に吟味したくなる。
なぜ、自分は免疫系の自己区別にこだわるのか。極めて機械論的に解明されるその区別の様態や「型」に、なぜ否定的にこだわり続けているのだろう?
こうした問いの答えを、私にとってのテクノポップと反抗期が、「型に嵌る」ということをめぐっていかなるものであったか、そのことから考えてみよう。
私は小学4、5年(1979年、1980年)辺り(10歳か11歳)から反抗期だった。反抗の主な相手は父である。母のこともあったけれど。又、学校の先生だったことも。
今の私より10歳下くらいの父は、最晩年の2、3年を、自分の一人息子から反抗を受けていたことになる。(父は1982年2月に、45歳で亡くなった。)
その時の私は、何を考えていたのか?今ではよく覚えていない。
自分が一人の人間として、権利を持つ。何かを絶対的に強制され、コントロールされることがあってはならない。
親だろうと、先生だろうと。
こんなところか?
理不尽な強制を受けたと感ずれば、親だろうと、先生だろうと、徹底抗戦である。
あらゆる権威を否定せよ。
上から押し付けられた、既成の「型」や枠に嵌るものか。
そんな思いが自分の根底にはあったかもしれない。
二・二六事件が勃発した1936年(昭和11年)に生まれ、石原裕次郎/小林旭世代の父には、毎週日曜日に算数を教わっていて、でも、時々そこでも反抗。何か気に入らない事があったのか、私は急に挑発的に笑い声をたて、父からぶん殴られたりした。
一方で、小学校5年生くらいの時、シンセサイザー音楽、特にテクノポップとの重要な出会いがあった。仲良しの家に仲間4~5人で集まり、ラジカセを囲み、YMO(Yellow Magic Orchestra)の音楽を聴いて、のめり込んでいく。自宅ではYMOだけでなく、さらにクラフトワークやタンジェリン・ドリーム、LOGIC SYSTEM、ジャパン、ジョン・フォックス 、ウルトラヴォックス、ヴィサージ、ヒューマンリーグ、ソフトセル、ヴァン・ゲリス、喜多郎さん、冨田勲さん等の音楽を、ラジオ放送をテープ録音したり、貸しレコード屋さんから借りて来るなどして、朝小学校に登校する前に、夕方帰ってきてから、と何度も聞く。1980年くらいからである。
( ここで挙げたYMO、クラフトワーク、LOGIC SYSTEM以外のミュージシャン、バンドは、厳密にはテクノポップではないのかもしれないけれど、その音楽性の一部は、テクノポップに通じていると私は考える。というか、テクノポップは、様々な音楽に潜在的に取り込まれる要素になっていったと考えられる。
ウイキペディアには、「テクノポップ (Technopop/Techno Pop) は、シンセサイザー・シーケンサー・ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったポピュラー音楽。日本では1970年代後半から使われはじめた和製の音楽用語。テクノロジーポップの略。」という定義があったが、これだけでは収まらない何かを、私はこれから考えたいのである。)
そして世界の見え方が変わっていく。我がホームタウン下北沢が、さらには遠出した時の渋谷、新宿の眺めが、テクノポップの、コンピュータでプログラミングされ制御された、或る「型」に嵌ったシーケンスやリズムの反復と共に変わっていく。
第二次世界大戦での敗北により焼け野原になった東京の「都市」が高度経済成長を経て変貌した1980年当時の風景。その風景に、テクノポップ等の音楽でしか表せない何かが重なっていく。それを幻視する小学生の私がいた。
その中で親、先生に反抗する自分の身体を取り囲む風景が明らかに変わっていく。
ちなみに私の父は、YMO等のテクノポップについては、悪い音楽だ、というように否定的だった。
同じパターン・「型」を機械的に反復する音楽表現の、アート表現としての価値に、父はかなりの疑問符を付けていたように思う。こんなものが音楽としての良さがあるのか?というように。
それに対して私は、いや、そんな事はない、と一歩も譲らなかった。文字通りの反抗をしたのである。音楽とはこうあるべき、という「型」に嵌ることを拒否した、「反抗」したのである。
日本での戦後民主主義の出現と共に若き日を送った、石原/小林世代の「父親たち」と、テクノポップに夢中になっていく1980年代前半の「子供たち」との間では、1980年代前半に我が家と同じような対立・論争が日本全国で起こっていたのかもしれない。元THE BOOMの宮沢和史さんも、どこかで同じような対立がお父様とあったことを書いておられた。
軍国主義の日本による戦争が終わり、戦後民主主義とそこで成立していく人権により、戦前・戦時中から押し付けられていた既成の「型」を刷新する文化、表現を生み出してきた世代の父の、音楽への、表現への定義が、結局は私達の世代にとっては、押し付けられた「型」になってしまう。
さて、そうする内に自分の中で生じた化学反応のような出会いは、以下の(1)と(2)の間に起こったものだった。
(1) 型に嵌ること、コントロールされることを拒否する反抗期の自分。
(2) コンピュータによって制御されコントロールされたパターン、或る型に嵌りつつの反復をするテクノポップ。あるいはそのようなパターン、型を表現として成立することを可能にする、過去の音楽史で既に作られている音楽形式、型に嵌りつつのそれ。
あるいはそうした文脈での型に嵌った表現に感化され同化してゆく自分。
これら二つがいつの間にか出会っていたのだ。
そして、「型に嵌る」ということをめぐって概念上は一見矛盾するかのようなこれらが、音楽においては何の矛盾もなく、パラドキシカルに、しっかりと取り結んだところに、自分の思索の場所性の大切な出発点の一つはある。それは今に続いている。
制御されコントロールされることと、そのことを拒否する精神の(主体性の)運動が、矛盾なくしっかりと手を結んだ瞬間を、1980年代初頭の東京で、私はたしかに目撃したのだ(音楽が耳で聴くものだとすれば「聴撃」?)。
この取り結びは、なぜ、如何にして「矛盾なく」だったのか?
それは音楽でしかあり得ない結合であったのか?
これらのことをこれから考えてみたいのである。
してみれば、こうした結合は、1980年前後の主に欧米(ヨーロッパ・アメリカ)の(更に日本の?)ポピュラー音楽シーンにも、少しズレはあるにせよ、重なるかもしれない。
(1)‘いわば、様々な権威に服従し、型に嵌ることを拒否するレジスタンスとしてのパンクロック。(楽譜上に、音楽の従来の「型」通りに書かれる形では、自分達の表現の内実は完結出来ない、というように。)
(2)’上述の(2)を表現するかのようなクラフトワーク等のテクノポップ。
こうした、一見方向性の異なる二つのポピュラーミュージックの潮流、波が1970年代から出現し、私見ではそれらは1980年前後の頃にパラドキシカルに結合し、1980年代前半の新しい波(New Wave)を形成していった。
更に私見では、その結合、波が日本においては、現代思想での「主体性」への問いのあり方と重なった瞬間が、1980年代前半から中盤にかけて確実にあったように思う。
そんな或る種の大衆文化の転換点が、1980年代前半からしばらく、間違いなく、少なくとも日本においては(場合によっては欧米の一部でも?)進行していたと私は思う。
上述の(二・二六事件勃発の)1936年に生まれ、石原/小林世代の父と、全共闘が各地で起こり、東京大学で入試がなかった1969年(昭和44年)に生まれた私の「確執」は、そんな転換点の一現象だったのかもしれない。
そうした、いわば文化的モードの大きな転換が、「子供」の感受性を発火点として(あるいはそれと相互連動して?)起こっていたことは、大きな意味を持つ、とも私は考える。
私にしても宮沢和史さんにしても、1980年代前半の子供たちが、自分の親たちと時に対立しつつ、自分達の「風景」と「身体」を作っていった。
1960年代から1970年代の全学連や全共闘のように、国会議事堂や特定の大学を何重にも取り囲んで、世の政治や学問の政治性に「反抗」するのではないけれど、当時のそれぞれの子供たちが、1人1人、何かを乗り越え、時に反抗し、自分の風景を見ようとし、大袈裟に言えば自分なりの「主体性」あるいは「自我」の成立・不成立を模索していたのだろうか?
更に当時の子供たちが成長と共に得る主体性と、主体性の成立そのものを問う1980年代前半の文化潮流は、微妙な形で重なっていた。
それらの模索、重なりはあたかも、60年安保、70年安保に代替する、1980年代初頭の密かな運動だった。
1989年、即ちその密かな運動の7〜9年後にあった東欧の革命、東西冷戦の終焉の予兆が如く、子供たちが何かの形を、型を自分の「場所」で模索していたのだろうか?
その模索に、テクノポップ(あるいはテクノポップ的性質を内含した音楽)は、或る種の霊感、直感を与えていたようにも思う。
そして私は、1989年の東西冷戦終焉時に20歳になり、大人になった。
ここで考えるべきは、私にとっての「型」とは何だろうか?ということだ。
過去という「時間」、歴史を背負った、既成の「型」とは?
ところで、こうして音楽における「型」を問う時、音楽がそれ自体として、「身体性」を有するかも、とても重要である。
楽器という物体を叩く、空気振動が起こる、人間の身体の耳の鼓膜が震える、脳細胞に信号が送られる。
そうした一連の過程、「時間」経過において、どこか局所的場所に音や音楽が存在するのではないけれど、しかしやはり、何かの「形」・「型」において、存在、物体、身体に重なる形で音楽が存在すると仮定する時、ここでの「身体性」をいかに受け止め、定義していくかが重要な問題となる。
音楽を「聴き」、作り(作りつつ聴く、とも言える)、論ずる上でである。
例えば、音楽自体ではないが、お能は型の組み合わせ、と言われる。様々な身体動作(謡をする時の喉の震わせ方も含めて)の型に、取り敢えずは服従する中で、一つの個性は表出される。
こうした事情を鑑みた上で、「身体性」の問題にも目配せしつつ、上述の、「型に嵌る」ということをめぐるパラドキシカルな結合への問いと、それに伴う「型」への問いを、これから考察していきたいのである(勿論、例えばソナタ形式とかラテン形式とかが、上述の身体性と一体の「型」とは同一でない部分もかなりあると思われるが、その部分はおいおい位置付けていこう。)。
そしてその具体的方法については、次回以降、ゆっくり模索していきたいと思う。
その中で、テクノポップという音楽のスタイル、あるいはそれこそその「型」を定義づけていけたらと思う。(了)
(以下は、上で言及したLOGIC SYSTEMという音楽ユニットの楽曲『LOGIC』(1981年)。
こうした曲を、私は小学生の頃に聞いていました。)
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