北條立記
その赤子の手の甲には、深い皺があった。
気になり上着を脱がせてみると、背中の右上にも皺があった。
左の二の腕にも、臍の上辺りにも、右のふくらはぎにも皺が刻まれていた。
目の下には大きな隈がある。
目玉は赤く充血している。
手の小皺をよく見ると、溝が深く、何本も横に走りながら、縦皺も混ざり、阿弥陀籤の様になっていた。
私はその皺の始まりがどこにあるのかをよく見ようと、赤子の掌を持ち上げた。
赤子からは、低い声で「ばあぁ」と発せられた。
反射的に目を見ると、とても悲しそうな眼(まなこ)をしている。
眉は細っそりした産毛が何本か。
瞼(まぶた)は一重だ。
目線を下に遣り、目元には薄っすら影が落ちている。
鼻先は白い丸団子のようだが、鼻筋はしっかりしている。
「なむ」と苦しそうに声を出した。
私は赤子の手が冷えていないか、足指が寒さで青くなっていないか、確かめるため手で触り、目を遣った。
赤子の指は、皮膚の表面が少し冷やっとしていた。
茶色い毛糸のマフラーで手を包む。
首を温めると、血行が良くなり、温かくなった血液が体中を回る。
そう思って、首筋に手を遣った。
すると、そこにも皺を感じた。
赤子は咳をするのを抑えているのか、喉の低い詰まった音を立てた。
泣き叫ぶことも、足をバタつかせることも、しない。
それを忘れている、知らないでいる、あるいは喉の奥底に、思い留めている。
一瞬私の方に目線を動かした。
私から見えたのは右目だけだったが、堪(こら)えた行き詰まりの色が、長い間押し凝らして来たかの様な瞳の揺れが、その目の細い血筋と共に見えた。
赤子は声を出さない。
しかし、喉はぐっと引かれたままだった。
それを見て、それから眉間に目を遣ると、眉間の中、鼻筋の付け根から、額の天辺(てっぺん)に向かって、垢が、一筋あった。
寝たまま、抑えたまま、手の皺を固くしたまま、目元から、涙腺からの、何滴とない、傷んだ心。
私はその一筋の垢を触(さわ)れなかった。
この子は、私の子なのに。
産んだばかりの時を思い出そうとしても、その時から体に皺があったのか、思いも寄らず、見てもいず、頭には浮かばない。
いつから皺があったの?
いつから泣かないようになったの?
私は自分のことで精一杯で来ていて、考えようとしても、それらのことを考え付けなかった。
気付くと、赤子は私の服の裾を指先で握っていた。
この子とは二人だけで暮らして来た。
私は人形作家で、家で仕事をして来た。
作っているのは、西洋人形。
古いヨーロッパの磁器製のビスクドールを再現するのが仕事。
地方の安い土地の家を借りて、家の隣に竈を設け、そこで人形用に磁器を焼いて作っている。
でも余り売れていなかった。
赤子が「ばあぁ」「ばあぁ」と悲しそうな声を出した。
リサイクルショップで買った小さなベビーベッドにいつもは寝かせていた。
「なむぅ」とも咳き込みながら言った。
私には「涙」と聞こえた。
私は毎日のようにすすり泣いていた。
作業部屋で。
赤子と一緒に寝る時は、お腹に抱いていたのだが。
この子の額の一筋の涙の通った垢の跡。
この子の可愛い手にある何本もの皺。
余裕がないまま気付かないでいた。
私の最初の作の人形は、左手を失っていた。
それは私の心の様に。
左手を失った母。
私はそれだった。
子供を抱き上げるには、2つの手が必要なのだが。
私は両手があるのだが。
でも、抱き上げることができなかった。
私は物事への喜びを抑えて生きていた。
人に悲しみを口にすることはなかった。
手を失っても、失った部分の感覚を感じると言う。
私には手があるのだが。
あるのは指先の悲しみ。
赤子の腕が少し震えた。
眉間を見ると、小さく皺が寄っている。
でもそれ以上、声を上げる訳でもない。
堪(こら)えているのかもしれない。
私は赤子の小さな頭の後ろに右手を遣り、その重みを感じながら、自分の胸へと引き寄せた。
赤子は少し頭を動かし、喉の音が短く聞こえた。
私は気付かずに、小さな頭の重みを手に感じながら、赤子の体を自分へと引き寄せていた。
赤子の鼻先が私の方へと動いた気がした。
私は畳の上の敷布団の上で、薄暗く、赤子と共にひっそりと横たわっていた。
この子は私以上に泣いて来たのかもしれない。
二人で堪えてその寒い冬を過ごした。
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