夢日記『闇の左手』

ゴーレム佐藤

 寝ていたら背後から僕の手を取るものがいる。手を取られていることに気を取られていたら僕の足を掴むものがいる。

 暖かい手はすがるように僕を掴んで離さないが、その力の握り方には微かな憎悪をも感じた。

 聞こえるは静かな息遣いと指先から感じる血管の脈動。規則的な鼓動は時を刻むかのごとく「今」を感じさせていた。闇の中で微動だにできずに硬直する僕の筋肉は強張るが、それは僅かかもしれないが拒否という抵抗なのだ。語らずとも接した皮膚から入り込む意識の奔流は、塞き止める方法を知らない僕を駆逐し占領しようとする。

 永遠と呼んでも差し支えない程の時がやがて差し込む朝陽によって突如終焉を迎ようとしていた。

 消えていく感触が間違いなく現実なのか確かめたかった僕は静かに寝返りを打った。背後に誰かが居られる空間などない事を確認するとほっとして、掴まれていた手首を足をさするのだった。

 僕はカーテンを思い切り開けて、眼も心もぎらつくばかりの陽光で射抜かれるのに任せた。

 朝が来た。助かった。そう思った。

 真夏の日差しが窓から差し込んでいるし、なにもかもが克明に見えるほどの明るさと自分が間違いなくひとりだということを確認しているというのに不安は消えなかった。

 けれども喉がカラカラだ。ふと気がつけば全身汗だくじゃないか。不安を生理的な欲求で蔽い冷蔵庫に冷えた麦茶があったのを思い出すと僕は立ち上がった。

 

 立ち上がった…はずだった。

 足首をそっと、あくまでそうっと握る手が、立ち上がろうと決意した僕をまた闇へと引き戻そうとする。

 視界に確かにあった襖も机も椅子もその上に乗っていた本もCDも昨日飲んだ缶チューハイの飲み残しも風呂上りに使ったタオルもテレビのリモコンも眼鏡も壁にかかっているカレンダーも世界地図も乱雑に積み上げてある仕事の仕様書も昨日買ったばかりのイヤフォンも町内会のネーム入りのボールペンもメール着信を伝える点滅をしている携帯電話も、全ては闇に消え、残るは足首の感触だけだった。

 強引に足を前へと突き出せば振りほどけたかもしれない。闇は消え、辿り着いた冷蔵庫のよく冷えた麦茶をごくごくと喉を鳴らして飲み干せたかもしれない。

 でも僕はできなかった。

 永い永い間、僕はまた硬直していた。振り向くこともできず振りほどくこともできず、只々そのすがるような左手の感触に拘泥していた。息をすることも忘れ、握る力のわずかな強弱に心を支配されていった。

 いつからなのか止め処もなく流れる涙に気がついた。それに呼応するかのように左手の握る力が僅かばかり強くなった気がする。

 永い時を経て僕は和解すれば済むことなのではないか、と意味もなく思うようになっていた。止まることを知らない涙と、その手が左手だということ。その手の持ち主は間違いなく利き腕は右だと確信する。利き腕よりも弱々しい左手。決して離すまいと握り締めることもなくその存在を示すだけかのような力の入れ方。その向こうで微かに聞こえる息遣い。引き止めてはいないよ、とまで言いたげな押し殺された存在・空気・感触。

 僕は何も見えない中、振り切ることなどできやしない自分に、振り向けと命令する。

 硬直していた身体はいきなり軟体動物よろしく骨抜きになって、腰から砕けるのを感じながら、ねじった腰から上が慣性で回転するのを感じ、否が応でも視界に入るのを覚悟した。

 振り向いたとき闇は光に包まれ、それはどこまでも明るく明るく、明るすぎるそれは何も見ることを許さなかった。さながら白い闇の中、具体的な日常も僅かに共有していた左手との皮膚の感触も、そのどちらも永遠に失くしてしまったことに気がついた。

 それに気がついた僕はもう、涙を流すことも出来なくなっていた。