Ⅲ エフェクト

まどろむ海月

 

もうずいぶん昔のことですが 雲になって しばらく漂っていたころ 

つめたい風にさらされて あてどなくさまよう 若い女性を見ました。

騙されて身も心も傷ついた恋の鋭い痛みに われを失っているのでした。

 

深い悲哀が 彼女の姿を霞ませ 体が透明に成りはじめた時  

はげしい突風が その体を真二つに切り裂いたのでした。

 

半身は 色も姿も回復し 何事もなかったかのように家に戻っていきました。

綺麗な顔は 冷たい鉄のような表情に変わっていましたが… 

 

半身は 透明なまま さらに二つに分かれると ひとつは 

白くかわいらしい生き物の姿になると 風の匂いをかいでいましたが 

やがて 近くの柔らかなしげみの中に姿を けしました。

 

もうひとつは透明なまま さまざまに形を変えながら 

風の中を流れていきました。

その悲しみの美しさに惹かれた私は 雲の姿のまま あとを追いましたが

情けないことですが 気弱く 声がかけられないのでした。

 

その悲しみは まるで私の存在に気づきもしないで 

小さな湖の上空にたどりつくと

深いエメラルド色の 湖水の底にとけこんでいきました。

 

湖は 微かに波紋を広げましたが 

あとは 青い空と雲を映しているばかりでした。

私はずいぶん永い間 その空を漂っていたのですが 

結局あきらめて そのまま 旅を続けたのでした。

 

話はこんな事件をとうに忘れるほど 時がたったころのことです

永い永い旅と邪悪な呪文との闘いで消耗し 

そのときの私は 魔法の力をほとんど失っていました。

日が暮れる前に もう一山越そうと考えたのが 間違いでした。

厳しい傾斜をやっと上りつめ 黄昏の中に立つと そこは火山の頂上 

火口は 静かな緑の水を湛えた深い湖になっていました。

切り立った崖のどこにも休めそうな場所はなく 

険しい尾根をぐるりと回って向こう側にたどりつくのは

とても困難に見えました。

湖面をまっすぐに渡っていくのが最短距離で一番楽なのは 

地形からも明らかでした。

判断力も鈍っていたのでしょう。山下に戻る気になれなかった私は

わずかに残っていた魔法の力を使ってみることにしました。

さいわい湖水は凍る寸前の冷たさだ…

 

冷たい水に指をいれ 湖面に玻璃化の秘法をかけた。

ガラス化して凍った湖面をゆっくり渡っていく…

ちょうど中心あたりに進んだとき かすかな音がして 

わずかにひびが入った。

思わず立ち止まったが 別条はない。

一歩踏み出したら さらにひびは広がった。

私はしゃがみこみ まったく動けなくなってしまった。

玻璃が割れれば 身を切る湖水の冷たさに 

疲れた体は5分も泳げないだろう。

魔法の力も せめて1日熟睡できない限り 回復しそうにないが

玻璃は一時間ももたない…

 

ひびの入ったガラスごしに 微動もできない透明な エメラルド色の湖水の

恐怖の底を覗きこんだ私は 奇妙な眠りの渦に引き込まれ そのまま小さく石化していく予感の中で 

心が一切を諦めはじめていくのを 見つめていました。

 

その時 湖水の深い緑の底から 青く揺らめきながら  

やさしく 近づいてくるものがありました。

その若く美しい女神の顔は 湖全体に広がるかと思われるほど 

巨きくなりましたが 心配そうな表情のまま 白くたおやかな手を伸べて

玻璃の面を裏側から そっと支えてくれました。

 

その後のことは 実はよく覚えていないのですが

対岸の山の頂上に立って やっと自分を取り戻した私が振りかえったとき 

もうあの湖の精の姿は何処にもありませんでした。

激しい胸の鼓動はなかなか静まりませんでした。

急速に闇に沈んでいく森の中に歩を進め なんとか

一夜の眠りの場を整え終え 身体を伸べました。

そして黒い梢の隙間に さやかな星空を眺めていると 

気になってならなかった たしかに見覚えのあるあの湖水の妖精の顔に

やっと思い当たったのでした

 

それは あの日の 美しい 悲しみの顔 でした。

そして 時間はさらに遡って 私が苦しい旅の途上で 

いつか通り過ぎたことがあった あの町の あの家の窓辺で

窓硝子に 白くたおやかなその手をそっとふれたまま

私を哀しく見つめていた あの少女の顔でもあったのでした。

 

時は 愛は すでに 遠く遠く過ぎており

もう とりもどしようもない…

涙は流れて止みませんでした。

 

        

あの星空の彼方に

名も知られぬ小さな星があって

はてもなく広がる草原一面に 咲き乱れる花々…

 

永い永い冬の終りに 

ついに訪れたその星の美しい春を

やさしい風に揺れる春を

十数年来得られたことのない不思議に深い安らぎの中で

その夜の私は 夢見ることができたのでした