愛と夢と冒険と 欧州の美容院探訪記

野原広子

 

 茨城の農業高校を卒業した18才の私が上京した目的は、愛と夢と冒険と。この3つにつきる、なーあんてね。キャッ。近所の安カフェ、ベローチェでパソコンをぱちぱちしながら顔から火が噴いたわ。

 で、最初からぶっちゃけちゃうと3つの中でいちばんカラフルな「愛」は、才能がなかったんだね。20代では4年間の結婚生活も経験して、何度かファイトしたもののことごとく玉砕。30代になったら「きゃはは、こっちのほうが興奮するわ」と日夜、麻雀壮通いよ。それが20年も続いたんだから、あの四角い緑色のテーブルに私なりの夢と冒険を感じていたんだわね。

 その話をすると長くなるから、今回はもっとふつうの冒険の話をしようと思う。私にとっては初回から勇気を振り絞った記憶はないけれど、人に言うと、「えーっ、よくそんなことができますね」と驚かれるの。それは外国の美容院に飛び込みで入ってカットしてもらうこと。

 つい先日も、1600円でカットしてくれる近所の理容店で、若いお兄さんにその話をしたら「怖くないですか?」と鏡に映る私の顔をマジマジと見られちゃった。

「何が?」と聞くと、「言葉だってちゃんと伝わらないところで、どんなスタイルにされるかわからないじゃないですか」と言うの。「てか、言葉は大丈夫なんですか?」とも。

「いやいや、カットあんどシャンプー、フリーズとか言えばいいし」というと、かかかと笑われたっけ。

 実は私、昔から美容院がすごく苦手なんだよね。理由はズラっと並んでいる大きな鏡で、自分のツラを正面から見たいか。気まずくないかという問題がまずあるのよ。さらに隣の席の人と鏡の中で目が合ったりすると、胸当てをはぎ取って逃げ出したくなる。

 もっと苦手なのは、美容師さんとの会話。「どんなスタイルにしますか?」と聞かれたって答えようがないって。「耳が出るくらい短く」とか、「寒いから首筋が隠れるくらい」くらいはいうけれど、それ以上は「任せます」。ていうか、お願いだから私に聞かないで! どんな形がこの顔形に合うか、かなりの数の顔形を見てきたあなた方のほうがずっとわかっているはずと、早口でまくし立てたりして。

そんなわけだから、最小限の言葉で頭を差し出して「好きにして」というのは、日本より言葉が通じない外国のほうがずっとやりやすいわけよ。

 で、私が外国で最初に入ったのは30代半ばだから、今から30年も前のこと。ローマのパンティオンの近くの小さな美容院で、50になったかならないかくらいのマダムが人待ちそうな顔で外を見ていて、通りがかった私と目が合ったのよ。

 その夜はローマ歌劇場でオペラ、『ラ・ボエーム』を、同行した仕事仲間と観ることになっていたの。この日のミミ役はミレッラ・フレーニという当代随一のソプラノ歌手で、まあ、あの声を生で聴けると思ったらいてもたってもいられない。それで鏡の前に座ると、「スタイリング、プリーズ」と言っていたわけ。

 美容師さんはさっそく私の顔を見ながら、当時は肩まであった髪の毛をしばらくいじったと思ったら、大量のヘアピンを持ってきたの。そして指先で髪の毛をくるくると巻くとピンで留める。これを繰り返してヘアスプレーを全体にかけて、おかまをかぶせたんだわ。

 小一時間後、ピンをはずして鏡に映った私をローマの美容師さんは満足そうに、「ドヤ」という顔で見ていたっけ。私もローマのド派手なマダムになったみたいで、美容院のフロアをクルリと回ってみせたっけ。

 その翌年だったかしら。今度はパリのポンピドゥセンターの近くの、東京でいえばシャンプー、カット6,000円といった感じの町の美容院に吸い込まれた。ガラス張りの店をのぞいたら美容師さんふたりがヒマそうにおしゃべりしているから、「ぼんじゅー」と言いながら入っていったわけ。

 ふたりの美容師さんのひとりが私がしてみたいヘアスタイルに近かったのよね。私が彼女の頭を指さして、「せいむ、フリーズ」と言うと、私の髪の毛を触るなり、パーマをかけろ、髪の毛を赤く染めろと、自分の頭を私に誇示してきた。そうしないと私と同じにはならないと言いたいのよね。

 こうなったら乗りかかった舟だ。やっちまおうかなと思ったものの、待て待て。ここで万金を離したら、この先の予定が狂う。なにせ、使えるお金をかき集めて高飛びしてきた身。思いつきで大枚を失うわけにはいかないわけ。

 それで「いやいや、カットだけでいいから」とキッパリと言うと、たちまち向こうはやる気を失い、適当にハサミでチョンチョンチョン。どこをカットしたの?という仕上がりだ。パリジェンヌは気分の浮き沈みが激しいと聞いていたけど、ここまでとはね。

 しかし、それで懲りないのが私の数少ない取柄でね。忘れられないのは南イタリアのバーリという町で4時間ほど居座った美容院よ。この日は夕方にはアテネ行きの船に乗ることになっていて、それまで半日、ぽっかりと時間が空いたわけ。連れのS嬢はアルベルベッロという観光地に出かけて行ったけど、私は疲れてどこかでボーっとしていたい。それであてもなく町を歩いていたときに大きな美容院が目についたわけ。

 この時はいくらか懐が温かかったのね。「パーマ、毛染め、シャンプー、カット、全部」と言ったら、小柄なグッチ祐三みたいな濃い顔のマエストロが鼻の穴をふくらませてやってきて、「東洋人は初めてだけどOK。私に任せてください」と大げさな挨拶をしてきたんだわ。

 後は夢うつつ。あっち行け、こっちに移動しろと言われるがまま、それにしてもこの手ののろさはなんなのよ。それで見るとはなしにマエストロの手元を見て気付いたんだよね。私が見慣れている親指を動かす日本の美容師さんとはハサミの動かし方がまるで違うのよ。まるで紙を切るように、ボツッ、ボツッ。リズムも何もありしゃない。

 4時間後。マエストロは満足そうに「ペルフェット!」と言ったけれど、ふんっ、どこが完璧よ! S嬢はボブのかつらをかぶったような私を見るなり、「きゃははは。おかしいっ」と笑い出したっけ。

 それでもまだ懲りない私。次はウイーンの安美容院に飛び込んだの。お国柄というのかしらね。美容院の中には金魚鉢みたいなタトゥ入れのブースがあって、数人が並んでいてね。それぞれが何やら楽しそうに彫り物をしていたの。

 ドナウ川沿いの店の周囲は、どことなく浅草に似ていて、気さくと言えば気さく。柄が悪いと言えば柄が悪い。

 それでも日本人のおばちゃんの客は珍しくなかったのかしら。ハサミの使い方はヨーロピアンだったけれど、仕上がりはごく当たり前に可もなく不可もなくだった。

「知らないところで髪をカットして怖くないですか?」と、理容師さんに言われた私の答えは「髪は放っておけば伸びるから平気」。コロナ騒ぎも一段落してきたことだし。次はアジアの美容院に入ってみようかしら。