いとう あきこ
少し前に他界された「ひろさちや」さんという仏教学者が、「仏教では、中道をいけと言う」と本で述べていた。幸せとはバランスが取れていることであると。例えば、火は強すぎると火事になるし、弱すぎると効果が得られない、何事も丁度良くあるべきということである。
私が法律を勉強していた頃は、論点部分での学説は、肯定説と否定説の間の折衷説が圧倒的に支持されていた。要は真ん中、事案により社会的妥当性を得るべきという説である。弱点としては明確性に欠けるが、しかし事案により、状況が全て異なるのは当たり前で一番妥当なのである。
世の中は、「絶対」と「相対」の考え方で成り立っている。当然でありながら、実はこの選択により、良くも悪くもなる重要なことだと思っている。
一番例を出されるのが、絶対主義は全員から同じ額を徴収する「消費税」、国民全員平等に見える。これに対し相対主義は高額所得者には高い税金を課せられる「累進課税」である。これも国民全員につき平等に思える。行政・立法機関は「どうしたら国民が納得するか、結果も目指すものが得られるか」などで使い分けをしているのだろう。しかし何かを問われた時、「絶対」「相対」の観念を理解していないと、言われたまま「ふ~ん、そうか」で終わってしまう。これは危険なことでもある。
私は高校時代、クラッシックギターを習っていたため、弦を弾く右手の爪を伸ばしていた。体育の教員は、爪を切ってくることには厳しかったが、最終的にはテーピングを撒くことで許した。その際に「おしゃれで爪を伸ばすのも、ギターを弾くためでも、爪を伸ばす事実が同じだと言うことはわかるか」と言われた。許可を得ないといけなかったので、仕方なく「はい」と言わざるを得なかった。
しかし、なんとなく言うことは分かるが、まだ「絶対」と「相対」の認識がなかったため、すっきりとしなかった。ギターにおいて爪を伸ばすのは、美しい音を出すためであり、やすりのかけ方も全く違う。見かけも美しいものではない。チャラチャラしたい訳ではなく、大真面目な一つの音をいかに美しく出すかの芸術のためである。これが恐らく、相対主義と絶対主義を感じた最初の出来事だったと思う。
今でも、子育て家庭に10万円支給をすると政府が言うと、まず出るのは「所得制限があった方が良い」という意見である。これは正当だと思う。しかし、その基準の設定、対象者の選別などの付加費用がどの位かにより一律支給の法が結果10万円が不要と思われる人にも配る一律支給の法が済む場合もある。やはり必要なのは、「皆、平等に……」ではなく、「こうであるから、こういう結果を出しました」という説明であると思う。一番説得力があるのが、証拠、データ、証明類である。
恐らく、生きている間、どうすべきか迷うことは尽きない。その時に、言葉を操るのが上手い者が優位に立つ。しかし、それらに流されず、自分になんとなくすっきりしない感情がある時は、そこには相対か絶対かどちらかに偏っているのだと思う。自分も周りも納得するように、バランス良い結論を出し、かつそのため、他の人はどうか、他の職場はどうか、他の年代は・・・など周りを見ていることも大切だ。死ぬときにあれは——? と思い返したり、思い残したりしないように都度進めたら良いと思う。
ずっと、絶対と相対については、どこかに文章として残しておきたいと思っていた。経済や哲学、心理学などの専門家でもないのでメモのような気持ちで書いた。世の中にはたくさんたくさん考えなければならない物事がある。本当はこう、この場合はこれが正義、誠実、そうやって自分の中の誠(まこと)からぶれないように生きていきたい。
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