ゴミ収集労働における「相互承認」と「追跡調査可能性」(三)

田中聡

 

〈4〉ゴミ収集における市民と行政の乖離の修正と「情報」
 前回まで述べてきた相互作用、相互承認について、同じく前回まで述べてきたことのおさらいをしつつ、それを歴史的且つ原理的に考究していく事の意義を再確認するところから、今回の拙い論考を始めてみよう。

 

 市民一人一人が管理する廃棄物という事が、地域の共同体の枠組み(フレーム)とは異なるところで行われる事も多々ある。故にそれぞれが地域共同体の縛りではなく、ゴミについての「情報」を確認する中で、一人一人で行動する指針を得なければならない。そうした行動の自由を相互承認し合う事が、市民同士、市民と行政、行政の元で働くゴミ収集者同士の間で、キチンと行われなければならない。
 かつて明治時代以前においては、市民(日本の例えば江戸時代において、こういう風に正式に呼ばれる人々がいたかは不明だが、現代的観点からそういう立場にあった人々、庶民を私は想定している。)が自分の管理可能な範囲で、自分に還ってくる形で、ゴミを廃棄(処理)していたのが、明治期以降の自治体での行政でゴミ廃棄処理が行われるようになり、ここに廃棄物処理をめぐる、市民と行政の乖離が生じた事が、溝入茂氏の論からは伺える。(〈註〉〈1〉)
 そしてこうした乖離と同時に、どこかゴミの問題は一人一人の市民にとって「他人事」になってしまった(溝入茂氏の指摘を参照した。〈註〉〈1〉)。いわば自分の人生にとってあまり「意味」のない事柄になってしまった。更にはその時、大量生産ー大量消費ー大量廃棄の「一方向性」が生じた可能性がある。
 こうした「一方向性」を乗り越え、市民の所有するゴミへの「情報」あるいは市民でも知りうるゴミの「情報」を増やす事によって、主に市民と行政の「相互作用」を起こすべきである。
 即ちそうした情報によって再び、ゴミの来し方行く末がそれぞれの人々の人生にとって「意味」のある事柄にしなければならない。

 

 そしてその中で、何よりも市民にとってのゴミ問題が「他人事」にはならないようにしなければならない。

 

 それに付随し、モノの大量生産ー大量消費ー大量廃棄という事を変革する情報の意味・内実を、更にはそれに伴う市民のゴミへの責任の所在が、上述の「情報」のネットワークの顕在化において、より明確化する方策を探るべきである。
 前回にも述べたように、ゴミ収集者は市民の「ゴミ情報」を受け入れるプロセス、あるいはそうした中での「情報」を、ゴミ収集する者とされる者との間の共有財産として顕在化させなければならない。
 早く、多くのゴミ量を捌き、特定の人間の自由意志及び判断に従う中で「一方的に」一律的にゴミ収集の仕事をやっつけ片付けるのではなく、なるべくゴミ量を減らすべく、(地域、生活世界の)住民の知識、意見、立場を知る事の「相互作用的」プロセスを進むようにする事を常に実行せねばならない。
 そこに前回まで述べてきた無線ICタグ(=RFID・以下においては、この略称の表記は省略する。)による「情報」、更にはそうした情報による追跡調査可能性はどう効いてくるのだろうか。
 ここではいわば、無線ICタグによって、場合によっては無限に大量の情報が入ってくる中で、その情報に「意味」が結合する事が要請されていると言って良い。(〈註〉〈2〉)

 

 そうした中で、上でも述べたように、一部の人間(いわゆる行政の管理者)の先導のもと、一部の人間(例えばゴミ収集者)の意志のもと、一般の市民とはかけ離れたところで、ゴミ収集・運搬が、市民からすれば他人事に、即ち自らの人生・命にとって無「意味」な事になってしまう事を防がねばならない。

 

 この事を以下においては歴史的かつ原理的に探りたいのである。

 

 それにしても例えばゴミ行政の専門家から行政「指導」を受ける市民にとっては、あたかも「親方」や「師匠」について徒弟修行するが如く、行政の言う事を無条件かつ一方的に聞き入れるのが、「経験的」であるのだろうか?その無条件的受け入れ、受容において。
 それとも「無条件」にではなく、あくまで(相互作用的)対話のプロセスにおいて、条件を設定しつつ、指導者としての上述の専門家の言う事を受け止めるのが「経験的」か?
 とりあえず無条件に受け入れて動いてみて始めて、その「意味」が分かる事というのもたしかにあるのかもしれない。しかし一方でそれで見えなくなってしまう事、意味が分からなくなってしまう事も多々あるのも事実である。ゴミ問題に関わることは特にそうである。
 問い方を変えれば、指導されれば、示唆、指摘されれば、それを取り敢えずは受け入れるのが、「経験的」で、外に開かれているのか?そしてその人の人生にとって「意味」ある学びが出来るのだろうか?
 しかし、指導者その人の意見と異なる条件が常にある、フル状態で、常に変わり得る、ゴミにはそんな不確定性がある。それはこの連載の前々回においても若干述べておいた。
 常にその状況や行為の「意味」が変わる他者との対話のプロセスが必要なのではないか。ただ無条件に「指導」を聞き入れるのは、その指導者からの情報の意図のみに開かれ、広い意味での「他なるもの」「外部」に閉じられている。広義の他者、外部との対話、相互作用のプロセスに閉じてしまうことにはならないだろうか?非経験的になってしまわないだろうか?人生にとって意味のある学びを減じてしまわないであろうか?

 

 これは市民同士、市民と行政の間のみならず、行政の元で働くゴミ収集者、ゴミ収集車の運転手らの間でも言える事である。いわばこれらの主体の間で、指導する者と指導される者という関係が生じる場面すべてにおいて。この連載の〈一〉でも書いたようにである。

 

 市民が一人一人の問題としてゴミ問題、ゴミ減量を考えるとして、上述の「情報」習得、「情報」通信の発達において、こうした「経験」及びそこでの「意味」をどう定義し直すべきだろうか?経験と先見的、先験的なものの境界の位相は、どうあるべきか、どう変化するべきか、あるいはどう変化しない方が良いのか。

 

 以下の歴史的かつ原理的検討においては、この連載の前回の(二)の(2)で述べた「経験」への論及とも併せて、この事も考えねばならない。

 

 ところでそこに私としては、「免疫系」というフレームを導入する事を試みたい。

 

 それは上述の明治期以降のゴミ収集体制への巨視的視点と共に、それぞれの人間の身体的「経験」という、直前に述べた「経験」という事にも通じる、ミクロな視点を射程に収める事をも目論んだものである。
 又、「情報」を数量的に扱うことに成功したと言われる(戸田山和久氏の指摘による)(〈註〉〈3〉)、シャノン流の情報理論に「意味」を取り込む、という事への模索をも、その導入は内含するはずである。

 

〈註〉

 

〈1〉溝入茂著『ごみの百年史ー処理技術の移り変わりー』(學藝書林、1988年)、特に第九章459ページ付近を参照

 

〈2〉石田英敬他編『デジタル・スタディーズ【第1巻】・メディア哲学』(東京大学出版会、2015年)、第6章「リアリティ・マイニング,RFID,無限のデータの真なる恐怖」(N・キャサリン・ヘイルズ著・御園生涼子訳)、特にその第4節「控えめな提案ー情報と意味を再結合することー」を参照

 

〈3〉戸田山和久著『哲学入門』(筑摩書房、2014年)、特に第3章、149ページ付近、165ページ付近を参照

 

〈5〉免疫系の「自己中心性」から「個体性」のコペルニクス的転回へ

 

 免疫系は、皮膚的に、物質的に異物が接触され、それに反応することによって成立しているのではないか。
 そうした免疫系への認識のパラダイムに支えられた防疫体制の成立が、上で述べた明治時代以降の日本のゴミ収集体制には影響している(溝入茂氏の論考を参考にした。〈註〉〈1〉)。

 

 一方で、免疫系の自己・非自己が、その都度循環的に意味論的に定義されてゆく、その循環が、開放系と言われる生命系の開放・非開放の対立を無効化するが如く作用している。その認識が、有機物の循環、有価物としての廃棄物の流通に深く影響していると私は推測している。(今後の検討課題ではあるが。)
 防疫体制的でありつつも、かつ循環的・流通円環的であるべき、そのゴミ収集体制の実相を、その免疫系の性質から再考察するべきである。
 即ち、自己の「外部」にある、性質、位相において無限の可能性のある異物への対応を、自と他、自己と非自己を截然として分けた上で、それらを弁証法的に統一し、その上に強力な意志決定機関を置き、そこから「一方的」に指令が下々に下っていく、というのではない、ゴミ収集体制をである。
 それはこれまで述べてきた市民と行政の悪しき乖離を修正する事に通じるものである。
 その試みを以下で模索したいのである。

 

 ところで、無線ICタグは、非「接触」に廃棄物の「個体」識別を行い、又廃棄物の性質、循環の様態を追跡出来る。(つまりは、接触によって得られる物事を、非接触によって「識別」する事の情報処理のプロセスは、以下で述べる事となるが、1970年代以降に明らかにされていった、免疫系が非接触でも、即ち外部からの入力なしに適応する在り方に正に対応するものである。)その中での追跡調査可能性を私は考察したい。
 接触による感染等の「反応」とは異質な、非「接触」による識別、認知、認識が、その廃棄物「情報」の流通・循環に影響し、根底から支える時、ゴミ収集体制での共同性や相互承認は、どう変容を遂げるのであろうか?

 

 してみれば、明治時代(即ち19世紀末から20世紀初頭にかけて)に進んだ防疫体制(〈註〉〈2〉)形成に前提されている、免疫系への科学的認識、更にそこで前提とされている、無限の可能性のある異物(抗原)への生命体の身体の対処・反応への、日本、及び世界の科学的(学問的)見方・見解は、それから80年程後の、(1970年代前半からの)免疫系の情報処理システムへの科学的見解の変貌(河本英夫氏の論考を参考にした。〈註〉〈3〉)によって、決定的なパラダイムの変化を迎えた。
 その変化は、(主に先進国の)人間の社会の「情報化」と並行・同時進行的に起こった何かである。

 

 いわばそれは、生命「個体」の情報処理の「コペルニクス的転回」と言えるものである。

 

 コペルニクス的転回とは、「認識がすべての対象にしたがって規定されるのではなく、対象がわれわれの認識にしたがって規定される」というようにまとめられる、カントの言明によって現されるものである。(実際には、「[認識が対象にしたがうのではなく]対象が私たちの認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば、形而上学の課題をよりよく推進することができるのではなかろうか。」とカントの『純粋理性批判』の序文(ΒⅩⅧ)ではなっている。(〈註〉〈4〉)

 

 ところで免疫学者の故・多田富雄氏は、自著『免疫の意味論』において、
「免疫というシステムは、・・・(略)・・・『先見性』のない細胞群をまず作り出し、その一揃いを温存することによって、逆に、未知のいかなるものが入ってきても対処し得る広い反応性、すなわち「先見性」を作り出している。」(〈註〉〈5〉)「免疫系は、『非自己』に対してではなくて『自己』のイディオタイプと反応することによって完結するのである。」(〈註〉〈6〉)
 「『非自己』の認識と排除のために発達したと考えられてきた免疫が、実は『自己』の認識をもとにして成立していたのである。免疫は、『非自己』に対する反応系として捉えるよりは、『自己』の全一性を保証するために存在するという考えが出てくる。」(〈註〉〈7〉)というように、上述の1970年代前半から解明が進んでいったと思われる、免疫系の情報処理システムについて考察している。
 更には、多田氏は別の論考において、超システムとしての免疫系を前提にした上で、
 「超システムは、内部のルールを自分で作り出しながら拡大してゆくのだから、当然目的はなくなる。それは自己目的化した、自己中心的システムとなる。」とも述べるのである。(〈註〉〈8〉)

 

 つまりは、カントの先の言葉を使えば、「すべての対象」が身体に「触れ」、入ってくる事に対する反応系としての免疫系ではなく、我々の「身体」の先見性のない細胞群をまずは作り出し、それらの「閉鎖的」な全一性を保証する事で、すべての対象を規定する事を成し遂げる、あるいは自己を知り、自己のイディオタイプと反応する事によって、結果的に外部の「すべての対象を規定」する。「反応」するのではなく、「規定」する。そうした事態が、1970年代頃から、免疫系において解明された。「閉鎖的」システムによって、あらゆる異物を「規定」する「開放性」が初めて生じる。
 即ちここでは、閉鎖性と開放性の区分そのものが無効化されているのである。(〈註〉〈9〉)
 その中での、先見性、先験的なるもの、更には(これまで本連載で複数回言及してきた)「経験的」である事の「意味」の再定義が今後為される可能性がある。

 

 かつて(1970年代頃から)廃棄物問題を論ずる際に、エントロピーの法則と共に語られていた開放定常系としての生命系は、実はこうした閉鎖性、あるいは開放性と閉鎖性の区分の無効性にこそ支えられていたものだったのではないか。
 しかしその事が看過されたまま、我々生命体の個体性と主体性が、更には廃棄物(ゴミ)問題が語られて、今日に至ってしまっている。

 

 今、その事を改めねばならない。

 

 かつてカントが「主体性」をめぐるコペルニクス的転回を起こしたのならば、今我々は「個体性」をめぐるそうしたコペルニクス的転回を起こさねばならない。
 そして、そうした原理的な転回を考慮しつつ、歴史的には日本では明治時代以降に成立した、上述の防疫体制とそこから派生したゴミ収集体制を再考せねばならない。

 

 更には、上述の「無限」の可能性のある異物への身体の対処・相関は、カントやへーゲル(の弁証論、弁証法等)で前提とされていた「無限」や「個体」観とどう接続可能であり、その接続は、今回の連載でこれまで述べてきた、相互承認、相互作用にどう影響するのか?を考えたい。

 

 それは免疫系への意味論的、哲学的理解を踏まえつつ、私が文字通り身体(み)をもって経験した廃棄物収集での相互承認の現状への考察となっていくものである。

 

 ところで上述の無線ICタグによるゴミの追跡調査とは、いわば、既に分別された廃棄物が、「過去」にどのように分別され、ゴミとして出されたかを考察するものである。
 つまりはそうした中で、過去を構成する事に通じていくものである。それはカント的な意味での「過去の(時間の)」構成、更にはその構成の主体の介在を現すものである。
 そしてそれは、上述のコペルニクス的転回の思考の雛形を示すものであるとも言える。
 即ち、過去の「すべての対象」に従って(過去への)「認識」が規定されるのではなく、我々の認識に従って過去の「すべての対象」が規定されるのである。

 

 それはこれまでこの連載で述べてきた「相互承認」での主体及び主体性とどう重なり、又異なるのであろうか?
 即ちこうした主体・主体性についての事柄と、ここでこれまで個体性について述べてきた事柄、即ち「全宇宙」の異物への対応を、個体としての自己を知ること、「過去」から存続している自己の免疫系での細胞を一揃えし、それらを「内部」として監視する事で結果として成し遂げる事とは、勿論差異がある。この差異をいかに埋めるか、解きほぐすかが、今述べたその重なりにとって大切な事である。

 

 ここで更に考えるべきは、無線ICタグという「個体」が、廃棄「物」というモノを認知する事と、その「意味」である。直前に書いた事との絡みで言えば、個体性と主体性についての、「過去」をめぐる対処をいかに取り結ぶかがポイントである。

 

 してみれば、自由意志・主体性を持った人間がゴミについての「情報」を認識・感知し、その情報をまとめ上げ、或る種の判断を醸成してゆく、というのみではなく、「個体」としての、モノとしての無線ICタグが、人間の「過去の」ゴミ搬出の行動(ゴミへの認知行動を含めた)自体を結果的に認知し、自動的にまとめ、送信したものが、社会的ネットワークで生かされている(廃棄物の個体性が崩壊してゆく事の「意味」を作り上げ、制作する。)という時、「主体」としてのゴミ収集者、ゴミ排出者の自由意志とそれに伴う、「責任」は、どこに所在するのであろうか?

 

 問い方を変えれば、人間が言語によって意味を制作し、無線ICタグという「個体」との関係性に、「意味」の回路網を埋め込む、というのみではなく、その無線ICタグという「個体」自身によって、廃棄物がモノとして、「個体」として崩壊してゆく「意味」を認知される事をも考え直さねばならない。
 勿論無線ICタグは、生命体ではないものの、広義の「個体」として考える事は出来ないだろうか?

 

 そう考える中で、(広義の)「個体性」のコペルニクス的転回を私は模索したいのである。

 

 しかもその事を、「意志」(科学的探求行為の意志を含めた{自由}意志を含めた)決定機関のない免疫系、それの為の防疫体制という事との相関関係において考究せねばならない。
 してみれば、有機物であろうと廃棄物であろうと、或る種の「モノ」への量的な「情報」に「意味」を付ける。数量的、科学的に分析される免疫系に依拠しつつも全体的文脈での「意味」を付ける、制作する。免疫学者の故・ニールス・イエルネ氏の探求以降の免疫系への分析はそうした事を課題にしている側面がある、と私は(まだまだ検証が不十分ながら)推測している。
 それはシャノン流の情報科学の理論的行き詰まりにおける課題、即ち量としての情報の理論に「意味」を埋め込む事であるのかもしれない。複数の論者の指摘からは、そんな風にも思えてくる。(〈註〉〈10〉)そしてその理論的支柱は、免疫系の個体性が、生命情報の「数量的」解析に依りつつも、全体的コンテクストからの「意味」のネットワークを探る中で現される可能性がある。
 その意味の埋め込みは、ただ言語行為の「主体」(例えば免疫科学の科学的探求行為を言語・記号によって行う人々のそれをも含む)が、意味を制作する行為として行われる、というだけではなく、上述の「個体」のコペルニクス的転回を踏まえた上で、(無線ICタグを含めた)個体自身が「意味」(「モノ」あるいは廃棄物でのモノの個体としての崩壊の「意味」をも含む)を認識する事を、重々、理論のシステムに取り込んだ上で、改めて広義の「主体性」を再考する、というプロセスにおいて捉えられねばならない。

 

 コペルニクスが、プトレマイオスのように地球を中心とする惑星運動の円周を考える事を改め、太陽を中心とした「全宇宙」のモノの動きを考えたとしたら、今日の免疫学は、「自己」の閉鎖された「身体」での、細胞の要素を一揃えする事によって、「全宇宙」の(自己以外の)モノ(異物)の動きへの個体としての対応、及びその事の「意味」を広義の言語・記号によって考え出したと言って良い。
 こうした「免疫系の自己中心性」(多田富雄氏の言葉〈註〉〈11〉)を考慮した上で、生命体、及びその一つとしての人間、更には無線ICタグという個体を含めた、自他の間の「相互承認」を考えるとどうなるのだろう?
 これは決して安易な「自己中心」称揚ではない。

 

 個体の自己中心性から眼を逸らす事なく、悪しき自己中心性を産む欲望を避け、その中で「正しさ」とか正義とか、それらに伴う(今回の連載の前回でも述べた)良心と「欲望」の重なりを模索するものである。
 勿論ここで述べてきた自己中心性と欲望は、完全に重なり合うものではなく、その差異、距離も今後キチンと考究し深慮せねばならない事は言うまでもない。
 いわば、自己中心性とその中での欲望を内在的に超越し、その中で正しさや良心と重なる事を考えねばならないのではないか?

 

 無線ICタグによって得られた、ゴミ収集での量的に無限な情報に「意味」を付ける事。
 あるいはゴミの排出等についての量的な情報に「意味」を付ける事は、人間等の生命体の「主体」が言語的・記号的に意味制作する事を見定めるだけではなく、上述の「個体性」のコペルニクス的転回を考慮しつつ行われるべきである。それは、免疫系の個体性についての物質還元的な数量的分析の方法論(即ち上述の「数量的、科学的に分析される免疫系の描像に依拠しつつも全体的文脈での『意味』を付ける」事への方法論)から学ばれるべきものである。
 それは又、主体が個体を観測する、というのみではなく、個体性はなぜ生じ、その個体性から主体性はなぜ生じるのか?という事の「意味」の回路を見定めようとするものである。

 

 こうした、生命体、無線ICタグという機械的認識装置という「個体」の個体性のコペルニクス的転回を踏まえた上での、今回述べてきた「自己中心性」とそこでの欲望の内在的超越、及びゴミの排出等についての量的な情報に「意味」を付ける事の具体的検討は、本連載の次回以降の検討に晒されねばならない。

 

 そうした中で、ゴミ排出をする市民、ゴミ収集者が、ゴミを排出/収集し、更にはゴミ処理していく事について、自らの人生における「意味」を制作していく事が問われるべきである。

 

 例えば正しくゴミを分別してゴミ出しする事に、自らの人生の時間を割く「意味」。
 それはそうやって分別する事が正しいから「意味」があるのか?
 それとも、本連載の(二)の(2)と(3)で書いた如き事がいずれ起こるならば、分別すればトクするから「意味」があるのか?そういう「お得」を得たいとする「欲望」を満たす事は人生にとって「意味」があるのか?あるとしたらどういう意味があるのか?それは上述の「正しさ」での意味と、どのような回路網を結ぶ可能性があるのか?

 

 そうした回路網を見定める中で、欲望と良心(正しさや正義を求めるような)とを重ね合わせる意味の回路網を見出す事は可能だろうか?
 そして、この章の冒頭で述べたような有機物の循環、有価物としての廃棄物の流通に、その回路はどう影響するのだろうか?

 

 これらは残された今後の課題である。

 

〈註〉

〈1〉溝入茂著『ごみの百年史』(學藝書林、1988年)、特に第一章23ページ付近を参照

〈2〉インターネット上のgoo辞書によれば、「防疫」とは、「感染症(伝染病)の発生・流行を予防すること。感染症患者の早期発見・隔離、消毒や媒介動物の駆除、予防接種などを行う。」と定義されている。そして「防疫体制」とは、そういった事を行う政治的・社会的体制と考えて良いだろうか。
 又、ファイザー株式会社のインターネットページの「ワクチンを学ぶ」欄の「免疫とは」によると、
「免疫とは、感染に対する抵抗性を示す能力です。古くから『1 度かかった感染症には2度目は感染しない(軽い症状ですむ)』ということが知られていました。『疫病(感染症)』から『免れる』能力が免疫です。」 
とある。

〈3〉河本英夫著『オートポイエーシス2001ー日々新たに目覚めるために』(新曜社、2000年)、特に「はじめに」の26ページ付近を参照

〈4〉カント著『純粋理性批判1』(光文社、2010年、中山元訳)より

〈5〉多田富雄著『免疫の意味論』(青土社、1993年)(青土社、1993年)第三章、特に56ページ付近より

〈6〉同書同章、特に63ページ付近より

〈7〉同書第二章、特に47ページ付近より

〈8〉『ビオス』1号(哲学書房、1995年)、特に3ページを参照

〈9〉〈3〉と同書、特に86ぺージを参照

〈10〉石田英敬他編『デジタル・スタディーズ【第1巻】・メディア哲学』(東京大学出版会、2015年)、第6章「リアリティ・マイニング,RFID,無限のデータの真なる恐怖」(N・キャサリン・ヘイルズ著・御園生涼子訳)、特にその第4節「控えめな提案ー情報と意味を再結合することー」を参照
及び、戸田山和久著『哲学入門』(筑摩書房、2014年)、特に第3章、149ページ付近、165ページ付近を参照

〈11〉〈5〉と同書の第二章、特に46ページ〜47ページ付近、及びこの章の表題自体を参照