『天女』第九回

南清璽

 

 看護婦は、丁度、張り紙を貼ろうとしていた。しばらく休診するという内容だった。

 「おはようございます。」

 私を認めたその看護婦は、訝しげに、全くの儀礼に過ぎないとの程で挨拶をした。

 「おはようございます。あそこの産婦人科では、廃業とすると伺いましたが。」

 「そうなるはずだったんですが、ここを引継ぐ医師を見つけてくれるという方がいまして。」

  それが、すぐに K だと分かった。だが、この段になってもその男をその名で呼べないのが、頓狂に思われた。

 「カシ何とかという男ではなかったでしょうか。」

 「その様なお名前でした。ところで、そちら様は?」

 ますます訝しい、この看護婦はそんな向きになっていた。

「私ですか。この上の屋敷の使用人です。」

   看護婦は、一応の合点がいったと風な様子だった。そうして、

 「今からそちらのお屋敷に立ち寄って、ここの鍵一式をお渡しするところです。」

 「丁度いいではないですか。私がお預かりして執事に渡しておきましょう。」

 「そうしていただけるのならお願い申し上げます。」

 私は、この幾つかある鍵の重みを感じた。やはり、この人里離れた寂しい場所で営んでいるというのに、厳重すぎる鍵の数だった。

 「こちらのお医者さんですが、出奔したと伺いました。あの産婦人科医からですが。心を病んでいらしたとか。」

 何でも情動が不安定となり、置き手紙一つ残し、そうしたのだと。その手紙に残した文面も意味不明なものであったことも聴いたと。

 この一連のことに対し、一応ともいえる、ねぎらいの言葉を述べた。もちろん、それは初めて会った人へのそれ相応のという具合で、世間体を取り繕うのに過ぎないものでもあった。一方で、意識下にあるものを悟られまいとしつつ、当為ともいえる、仰々しい物言いをするのをためらいもしていた。そうありつつも、僅かな関心を示すことも怠らなかった。それというのも、K の算段では、いつ頃の再開を見込んでいるかを知りたかったからだ。もっともその看護婦によれば、目途がたたないとのことだった。

 やはり、K に直接確かめる他はないようだ。

 

 ここの診療所は、平家建だった。いうなれば、サナトリウムにしては、やや、こじんまりとした趣きにあった。しかも、外壁が下見板張りで、白の塗装が施されていたからか、気品を感じつつも、愛着も感じさせる風合いも備えていた。やはり、収容できる人員数からして、療養施設としては、その採算が取れるものでもなかったのではと推察を及ぼした。私は、その看護婦と黙礼を交わし、そこを立ち去るそぶりをした。こうして、頃合いを見計る魂胆だった。ある思惑があったからだ。それは、看護婦も去ったであろうと思う時間に、その場に戻って見るという。何分、寂蒔とした場所。だから、看護婦の立ち去ったあとは、人の目など気にする必要はなかった。

 まずは、勝手口がどこか探してみた。だが、回廊に出るガラス扉を見つけられたので、看護婦から預かった鍵の中でそのものと思えるものを試した。回廊には、白色のペンキが塗られた、テーブルと椅子が置かれている。私は、そこからの芝の眺めに想いが至ったが、それがどういう風なのか、試しに座ることはなかった。やはり、そんなところではなかったからだ。

 その扉を解錠し、そこからこの診療所へ侵入した。そうして、診察室、あるいは、待合室などを順次見、今でも診療を行える手合いだということを確認した。それというのも、診察室の机には、聴診器、打鍵器が几帳面な程で置かれていたからだ。そしてハンガーに白衣と。やはり父の診察室は、ここに比べて、雑然としていた。この段になってそう思えてきたのだった。ここでは、さっきの産婦人科医の診察室の様に、父とのことで何かを感じることはなかった。こんな風に整然としてあれば尚更だ。

 常々父に対して懐いていたのは、父の存在が一つの壁であるということで、それに向き合うことができなかった。それはある種の怠惰でもあったと今では思っている。しかし、結果的にそれはそれで良かったのかもしれない。父は診療や患者のことで常に頭が一杯であったから、私や家族をかまうことはなかった。ただ、私がひとかどでも父を慮る気持ちがあれば、家族への接し方は違っていたかもしれない。

 

 ただ、この診療所には、一つの難があった。悪臭がすることだった。特に洗面所からかなりの臭いがする。ここは数箇所の窓を開けて換気をすることにした。それに加え、消毒液を使いそれを紛らわすことも考えた。私は、薬品が置かれた戸棚を見つけ、そこから消毒液の瓶を取り出した。そうして、元のとおり施錠した。これらの瓶は診察室の机に置いた。

 今一つ大事なものがあった。診断書だ。私は、抽斗の鍵を開けた。あった。これも同じく机に置き、その抽斗を施錠した。いや待てよ。診断書を偽造する際に、記名印と印鑑が必要になろう。再び、抽斗の鍵を開けてはみたが、同じ抽斗には、仕舞われていなかった。私は、受付のあたりを見てみることにした。あるとしたら、台に置かれたこの小さなチェストかもしれない。実は、こんな小さなチェストにも鍵がかけられていた。思ったとおりここにあった。一方で、その記名印に幾分かの埃がたまっていた。いろんな箇所で厳重に鍵をかけるのに、こういう具合に頓着しない面もあるのだと合点した。こうして実行の折に必要となるものをあらまし用意できた。

 更に、遺骸を処理するための準備も行った。庭にある倉庫へと行く。予想どおり、施錠されていた。同様に輪っかの中からその鍵を見つけ、開けた。やはり、スコップがあった。新聞紙も。

 掘るとすれば、焼却炉の側がいいだろう。悪臭に気づくものがいたとしてもいつものことだと考えるだろう。私は、小一時間ほどかけて穴を掘った。丁度、遺骸がおけるほどの。あとはこの倉庫にガソリンを置けばいい。それに劇団で俳優をしている友人から借りた鬘はまだ返していない。変装も行える。

 だが、何処か不確かなものを感じていた。明確な動機がないまま、犯行に及ぶことなんて可能なのだろうか?私は、この問いを明確にできないことに、分別として、如何なものかと考えてしまった。もちろん、如何なる動機であっても犯罪が正当化することなどできない。ならば、動機を明確に持つ必要などないのだ。酌量の余地があるか否かの事情に過ぎない。

 もし、気がかりな面があるとすれば、明確な動機がないまま実行して、その呵責から未遂に終わらないかだった。全く気持ちが怯まないとは言い切れないのも確かだ。だが、それにしても、この犯行が実行されれば、あと半月にも満たない命なのだ。かの御仁は、これといった明確な動機がないままに葬り去られる。その滑稽さを大いに嘲りたくもあったが、その自嘲が、作為、取り繕いの類でもあった。

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【編集部より】

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