イタリアの列車で、はい、お手をどうぞ。ドンパン節!

野原広子

 

「どんどんパンパンどんパンパン。どどパパ、どどパパ、どんパンパン、とくらぁ🎶

 

ドンパン節の一節を私は手拍子を入れて大きな声で歌っていた。私ひとりではない。日本のお座敷でもない。1984年の秋、ナーポリからパレルモに向かう長距離列車で、ベレエ帽を斜めにかぶった生きたギリシャ彫刻といった顔立ちの若い軍人さん2人も一緒に声を張り上げていた。なんでそんなことに?イタリア人がドンパン節ってどういうこと? という疑問はもっともである。

 

話はその1年前にさかのぼる。ドタバタと結婚して新婚旅行らしいことをしていなかった私は結婚2年でお金をためてギリシャ、トルコ、イタリアの長期旅行を企んだの。夫はサラリーマンだから前半のギリシャ、トルコで帰国。アテネの港町、ピレウスからはひとりでアドリア海を北上してベネツィアへ上陸するのは当初の予定通りだ。

 

26才、赤いリュックを背負って『地球の歩き方』を片手にイタリアを回ろうと思い立ったのは、早い話、“塩野七生病“にかかっていたからよ。イタリアに行くならベネツィアへ船で入りたいと決めたのも、『海の都の物語』の冒頭のシーンにしびれたからでね。一昼夜、船に揺られた朝、小さな島々が次々に海の中から浮かび上がってくる様は、今も忘れられるものじゃない。

 

それから塩野七生が書いたルネッサンスの舞台になった小都市を鉄道を乗り継いで見て回ったんだけど、その時に痛感したのが言葉なの。私の知っているかんたんな英語だけではどうにもならない場面が一日に何回も起きるんだよ。さらにひと部屋にずらっとベットが並ぶドミトリーに泊まればアメリカから来たというヤンキー娘に「えーっ、日本って英語の勉強、しないんだぁ」とバカにされるしね。

 

そういえばそのアメリカ娘、夜寝る時にメイクを落とさないのよ。「なんで?」って聞いたら、朝、塗り足すからいいんだって。私もかなりの横着者だけど上には上があるもんだと、感心して鏡をのぞく彼女の横顔を見ていたっけ。

 

それやこれやで全行程47泊49日間の初めての海外で、街の匂いも人の情も屈辱も一身に受けて帰国した私が向かったのが日伊協会よ。よし、来年は大都市の観光地以外、英語が通じないイタリアで、困り顔のアメリカ人の鼻を明かしたいと、熱く思ったわけ。

 

まぁ、生涯であれほど熱心に勉強したことってなかったね。朝起きたらテキストを開き、週に3日は夕方から学校に行って日曜日はイタリア人の先生のアパートを訪ねて個人レッスン。合間に週刊誌の取材と締め切りがある。ガチの受験勉強をほとんど経験しなかった私が初めて本気になったんだから、屈辱って大事!

 

とはいえ集中が続いたのは半年で惰性で8か月だったけれど、その成果をいざイタリアで試さん! とまぁ、そんなわけでよく年の秋、少しのイタリア語を身につけた私は再上陸したわけ。

 

ところがイタリア語のほうはすぐに壁に突き当たった。外国語を話すということがどういうことかよくわかっていなかったのよ。個人レッスンでイタリア人のエルマンノ先生と会話をしているつもりでいたけれど、それはテキストがあってその枠の中の会話。テニスにたとえるとコーチに球出しをしてもらって、いい気持ちになって打ち返していたのよね。が、現地では、どこから球が飛んでくるかわからない他流試合だ。

 

レストランで、ホテルで、観光地で、道を聞く。これは定形文を言うだけなんだけど、向こうの人は私がイタリア語が話せると思った瞬間!「×⚪︎△◻︎※×‥‥みゃ〜も‥」「×⚪︎△◻︎※×‥‥きゃ〜も‥」と、名古屋弁のような、それにしては上がり下がりの激しい音をわあーっとかぶせてくるんだわ。「くあっ」とか「きえ」とか、耳障りのよくない音もよく聞く。

 

あのさ、話、違くね? だって私、語学学校の日伊協会の最初の授業で「イタリア語は音楽です」と教えられたんだよ。「ピアノ、ピアニシモ、フォルテ、アンダンテ。音楽用語はすべてイタリア語です」と続き、その後、講師の望月一史先生は黒板にイタリア語でこう書いたの。「メロディア、ペルファボーレ」。「それをとっていただけますか?という意味だけど、たったそれだけのことを言うのにこんなに美しい発音をするのがイタリア語です」と歌うようにもう一度、黒板を指し示しながら「メロディア、ペルファボーレ」と復唱したっけ。

 

もっとも音楽のようなイタリア語だったとしてもわからないものはわからない。わかるのは私が話しているイタリア語だけ。こうなるとやることはひとつ。英語ならイエスかノー、イタリア語ならシーかノー。私のいうことが出来るか出来ないか、二択にして迫る。

 

それもあんまりエレガントなことではないけど、安レストランの親父やバールで話かけられたナンパ師と「私はイタリアが好きです。私は日本人です。年? さぁ、いくつでしょう」なんてことしか話せない自分がとことんイヤになった。かといって現地では行きたいところもあるしご飯も食べなくちゃならない。その前にどのバスに乗ってどこで降りたら目的地に着く? 落ち着いて持参した辞書を開くような余裕はどこにもない。個人旅は意外にも忙しいんだよね。

 

そんな自分をどうにもこうにも持て余しながら、北イタリアからローマ、ナーポリの観光地をひと通り回ってシチリアはパレルモ行きの列車に乗り込んだのが冒頭のシーンなの。

 

とにかく列車で席に座るなり、私と同行のTさんの2人に興味をもって話しかけてきたのが、軍服を着た若い軍人さん2人で、彼らはフィレンツェの駐屯地から休暇でシチリアの故郷に帰る途中なのだそうな。

 

当時のイタリアの列車はコンパートメントという6人がけの個室が連なっている車両が主流で、お尻の下のシートを手前に引っ張るとフラットになる。夜中は簡易寝台になるシカケ、ということを教えてくれたのも彼らだ。

 

それにしても身振り手振りで話す彼の美しいことといったらない!ひとりは生きたダビデ像そのもので、ハンサムだの美男なんて言葉は通り越して怖いくらいだ。

 

そんな彼らと6人がけの個室の座席をフラットにして向かい合わせにあぐらをかいて座っている。その状況が若い私の心に火をつけたんだね。

 

どんなやりとりからそうなったのかは覚えていない。ダビデ君が「日本の歌を教えて」と言い出したんだわ。「じゃ、どんパン節にしよう」と私。

 

「えーっ、どうやって」とちゃんとした大学を卒業してキチンとした性格のTさんは明らかに戸惑っている。てか、旅の道中、私に振り回されっぱなしのTさんはまた始まったと言わんばかりだ。

 

「どんどん」と手拍子を2つ打つ。「パンパン」と太もも2つ打つ。「どんどんパンパン、どんパンパン」。かんたんな旋律だからダビデ君は2度繰り返したら覚えた。続いて「どどパパ、どどパパ、どんパンパン」。日本のお座敷宴会ソング、恐るべし!ダビデ君たら、さも面白そうに手を打ち腿を打って、身体を揺らし出したではないの。

 

さて次、どうしよう。「うちのオヤジはハゲ頭はイタリア語でなんて言うのよ」と真面目なTさんに耳打ちされるまでもない。ハゲとハゲとが喧嘩してどちらもケがなくて良かったね、なんて私の語学力を遥かに超えている。

 

ならば、「これは日本の伝統的な」と言いながら、モミ手の手拍子を披露した私。手と手を斜めに合わせてぐにょぐにょと粘るように合わせる。彼らはこぼれそうな大きな目で私の手元を見て真似するんだけど、うーん、何かが違うんだよね。手と手で練るときに湿度がないのよ。餅とピッツァくらい違う。と、まぁ、細かいことはいいか。

 

「どんどんパンパンどんパンパン。どどパパ、どどパパ、どんパンパン、とくらぁ🎶

 

「ん? とくらぁ?」とダビデ君が聞く。 「レッツ、エンジョイということ」と私。

 

私たち、よほど楽しげだったのかしら。そのうち通路にいた軍人さんたちも加わって、カラブリア州を走る列車の中はどんパン節の大合唱。

 

そんなこんなも40年も昔のこと。ダビデ君たちも初老の男になって、毎夕、地中海に沈むシチリアの夕日を眺めたりしているのかもね。