生きることの地獄

いとう あきこ

 

私の中には、ある仮説がある。もはや仮説ではなく、恐らく皆実感していることであり、実証済なのではないかと思う。

人間界は地獄である。

文京区にある、八百屋お七をまつるお寺に、地獄・修羅・人間・極楽・天国だかの碑が並んでいる。人間界は本当に、修羅界と極楽界の間なのだろうか。

例えの一つとして、人は「痛覚」というものを生まれながらに持たされている。これだけでも、人が苦しむようにできている一つの証である。ぶつけたら痛い、針で刺されれば痛い、事故にでも遭おうものなら、数時間激痛に見舞われる。

 人は物である肉から出来ている。そしてその身体を維持しなければならない。体を悪くすれば、金がかかり、痛い苦しい思いをし、他者にも迷惑をかける。身体を普通に保つためには飲食を摂取しなければならず、そのためには一般的には働かなければならない。働くことは一人では成り立たず、必ず他者と接しなければならない。でこぼこした他の人たちとぶつかり、ぶつけられながら過ごす。異なる物とぶつかれば痛みを伴うこともある。肉を維持することはこんなに大変なのだ。

 

私は、帝王切開をしたことがあるが、腰椎麻酔のため感覚が若干ある。かなりの長さを切る。処置台で、その感覚から伝わるイメージが、鮭の腹をザクザクと割きイクラを出すのに似ていると思った。そして子を取り出した後は、縫合され病室へ戻るのだが、そこから数日間すざまじい痛みが待っている。体中に管をつながれ寝たきりのまま、何日も激痛に耐える。他の臓器の手術とは少し術後経過が異なり、子を出した後に子宮が元の大きさに戻ろうと縮む。縫合した子宮の傷も一緒に縮むから、壮絶な痛さである。比較的回復しても、血圧最高40。出血が2リットルあり輸血限界点だったそうで、トイレに行こうと立つと目前が見えなくなり、倒れないように座り込み、抱え込まれてベッドへ引きずられて行く。

通常出産もしているが、こちらも産まれる直前は、走って窓から飛び降りたい程、辛い。拷問である。しかも周囲は全て平常時の中で、自分だけうんうんうなっている。周りが恨めしくなる。

身体の平常が崩れるとこのような苦痛となる。

 

物質社会で生きているから、目に見える物、触れられる物に囲まれている。しかし心という見えない物も、肉体と同様な存在である。心をハート型のプリンか杏仁豆腐に例えると、投げた針がスッと刺さる人は柔らかい心の人、針が刺さらない硬いハートは自己中心者か自分を守るのが上手な人、刺さっても自分で押し出せる人もいれば、他の人に投げ返せる人もいる。反対に、柔らかすぎる杏仁豆腐だと刺さった針はズルズルと落ちていく。

針が刺さる人は、何回投げてもスッと刺さる。それを面白がる人もいる。心は見えないから、どれほど血や涙を流しても周りからはわからない。見えないから、生傷が癒える前にまた切りつける。そんなことが世の中、至るところで行われている。

これはもう、地獄である。地獄を見た訳ではないから、本当にあるのか、地獄絵図のような痛々しい世界なのかはわからない。しかし、泣き苦しみあえぐこの世の中は、決して楽で楽しく笑って過ごせる毎日ではない。そうなると極楽絵図よりは地獄絵図に近い。

個人的には、受け身でよさそうな地獄絵図の方が、自分で茨を分け傷だらけで前に進むより楽だと思っている。勝手に鬼が責め具でああだこうだしてくれる。どんなに叫ぼうが泣こうが、周りを気にする必要はないし、死んでいるのだから死を気にする必要もない。人間界で、巷で大声を出そうものなら、もう事件である。「普通」を維持しなければならない。

そう考えれば、私の中では地獄の下だ。

この地獄を生き抜き、本当の地獄に行ったらそこは天国に思えるかもしれないな。

かく言う今日は、何十回目かの誕生日である。