【詩画集Ⅳ】ある魔ものの伝説

まどろむ海月(西武 晶)

昔々 限りない闇の中で 魔ものがまどろみ漂っていました
あるとき魔ものは 自分の混沌とした長いまどろみの中で 世界を夢見ました
すると 星空の下の世界が現れ やがて朝になり 陽が昇りました
こうして その魔ものは 光の下の世界を創造したのだと思いました

果てしなく広がる草原一面に 美しい花々が咲き乱れていました
しかし どれくらい時がたった後のことでしたか 
魔ものはなんだか物足りなさを感じました
するとしだいに なんともかぐわしい匂いに包まれて 魔ものは驚きました
こうして 魔ものは 光の世界の匂いを創造したと思いました

おだやかな陽の光をあびて 花々は 微かな風に 揺れていました
魔ものは やはり 少し物足りなさを感じました
すると 柔らかな陽の光と気持ちのよい風が 
やさしく肌にふれるのを感じました
こうして その魔ものは 世界の触感を創造したと思いました

森にも林にも 色さまざまな木の実や果物が たわわになっていました
思わず魔ものは 宝石のように美しい果物のひとつを口にしました
しかし 何の感動もなく 落胆しました
すると 口のなかいっぱいに 甘く言いようもないふくざつな味わいが 
輝くように広がっていきました
こうして 魔ものは 味覚を創造したと思いました

森にも林にも 山にも野にも 川や海や 空や地の下にさえも 
生きものたちが満ちあふれ うごき戯れて 
魔ものはうれしくてなりませんでした
なぎさには やさしく はげしく 波がうちよせて それは
魔ものの幸せな胸の鼓動と ひとつになりました
このとき 海が この魔ものをさらに喜ばせようと 
最後の贈り物をしたのでした

魔ものの耳に くりかえしくりかえしうちよせる波の音 
川のせせらぎ 風と木々のさざめき 鳥たちのさえずり 
動くもの 生きとし生けるものたちの調べが
壮大な交響曲のように やさしく 生き生きと 聞こえてきたのです
こうして魔ものは ついに自分の全き世界を 創造し終えたと思い
至福の思いに 全身を震わせました

魔ものに 聴覚を贈った 海は かわりに自分の言葉を失いました
魔ものをあわれんで 視覚を贈った星々も 夜空に遠ざかり 
自分の言葉を失っていました
嗅覚を贈った花々 触覚を送った風と陽 味覚を贈った果実たちも
それぞれがかわりに大切な自分の言葉を失っていましたが 
誰も後悔はしていませんでした 
それはそれぞれが はるかな未来を信じていたからかもしれません  

魔ものは喜びにあふれて自分の世界のすべてに
触れ 見 味わい 聴き 匂いをかぎました
永い永い幸せな時の中で 彼は五感のすべてを使って
その世界とすべての事物を捉えきろうとする心を満足させていました
言葉は 今や言葉は 魔ものの思いの中に満ち充ちていました
幸せにあふれた彼は 自分の喜びを語る相手を求めました

しかし 星々は すでに彼と交わす言葉を失っていました
花々も 陽も風も 宝石のような果物たちも 海も
もはや 彼と語りあう言葉を持ってはいませんでした
永く永く彼は自分の幸福を語る相手を求めて世界をさまよい続けましたが
ついに出逢うことはありませんでした

魔ものは 星空の下 はるかに海が広がる 高い岩山の頂で
ひざを抱え 涙を流し続けました
果物たちが 花々が 日が風が 海が 星空が
何とか慰めたいと心から願い あらゆる美を
彼の前に差し出し続けたのでしたが
もはや 世界の何ものも 彼に喜びを与えることはできませんでした
孤独のもっとも深い深遠に落ちていき 彼はついにその果ての絶望の中で
体を 二つに引き裂きました

魔ものは死んでしまいました
星々も 陽も風も それを嘆き 
海に 花の咲き乱れる草原に 森に林に 伝えました
やがて世界中に とまどいと悲しみが 広がりました
星々が見守る中 風は持てる力を尽くしてうず巻き 
引き裂かれた体をひとつに戻そうとしました
ところが体は それを拒むように 
もう決してひとつになろうとはしませんでした

風があきらめると 陽は燦々と 魔ものの体に光を投げかけました
ついに体は雪が解けるように 二つに分かれて流れ出しましたが
それは 大地にしみこむより早く 白い蒸気となって
空にたち昇っていきました
風はそれを 別々の方向へはこび 旅立たせました
かって魔ものであったものは 一片の雲となり 空を流れていきました
自分がどんな形にもなることを楽しみ 
かって愛した世界のあらゆるものの姿をまねながら 
何処までも何処までも流れていきました

永い永いときがたち いつしかそれは星の形からそれに似た新しい生きもの 
人の姿をとって 広い広い砂漠をさまよっていました
どんな形にもなれる雲であることにも倦み こころは再び 
強い切望のために 悲しくきしんでいました
言葉はやはりこころの中に満ちあふれ 語りかける相手を求めて 
彼方へ彼方へと 彷徨わせるのでした

そして気も狂うような孤独感に身もだえ 
絶望の淵の上で再びこころが引き裂かれようとしたとき
彼は砂漠の彼方に小さな人影を見つけ 走りよっていきました

それは細くしなやかな木を思わせる体つきをした人でした
その白く輝くような体の隅々にまで触れ 見 味わい 
柔らかな胸の鼓動を聴き 匂いをかぎました
かぐわしい花の香りを残すその人を彼は おんな と名づけ そう呼びました
おんなは 太い樹を思わせる彼のたくましい体の隅々にまで触れ 見 味わい かたく厚い胸の鼓動を聴き 匂いをかぎ あたたかいけものの匂いを残すその人を おとこ と名づけ そう呼びました

     
おとこは 自分と似ていながらまるで違ってもいる体を持ったおんなを 
自身より愛することができました
そしておんなが 木々や花々により近づくことが多かった 
永い永い孤独な旅の果てに 現れた 
自分のかけがえのない分身でもあることを知りました
おんなも 自分と似ていながらまるで違ってもいる体を持ったおとこを 
自身より愛することができました
そしておとこが 樹々やけものたちにより近づくことが多かった 
永い永い孤独な旅の果てに 現れた 
自分のかけがえのない分身であることを知りました

二人は たがいの違いを愛であい 
こころに満ち充ちた思いをあふれさせて 言葉を交し共感し合いました
その行為のほとんどが 自分たちが強い感動とともに見聞きし 
触れ味わい匂いをかいだすべての愛すべき物事について
語り合い 名づけあうことから始まり終わりました
二人はそれぞれ自由でしたが もう二度と離れようとはしませんでした

愛そのものでもあったその言葉の中で 
世界はさらに美しく生まれ変わりました
星々が 花々が 日が風が 宝石のような果物たちが 海が 
二人とその子孫たちが交し合う言葉の世界の中で 新しい命を与えられ 
永遠に再生され続けていくだろうということを 知りました
そして かって自分たちが信じた 未来が 
始まったことを 知ったのでした

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