【本格小説】野いちご物語 ~Vol.0 トラ猫先生ミーちゃん~

矢野マミ

 白い影が、美術室後方の扉のガラス窓をふぅわりと漂うように横切った。「まっ昼間なのに、ゆ、幽霊!?」神沢美以は教卓の中央で正面を見ながら、目の端で廊下側を意識して待っている。やがて美術室の前の扉の向こうをのんびりと歩く白衣を確認して安堵した。養護教諭の谷川洋子だ。だしの匂いが漂ってきて、今日の給食はうどんかなぁと上の空の自分に気づいて教室を見渡す。

 四階の窓からは抜けるような七月の青空と白い雲が見える。夏休みももうすぐだ。幸い子どもたちは落ち着いて筆を握っている。先日出かけた写生大会の、今日は仕上げの日だ。授業時間内に完成しないと居残りだから今日はみんな必死だ。

 しかし、隣の調理室からピザを焼く匂いだろうか、洋風の匂いが流れてくると子どもたちもザワザワしてきた。
「あ! 体育の丸山先生だ! 」
「ほんとだ! 横山先生も! 調理実習の試食かな? 」
「いいなーー!  いいなーー!  調理実習いいなーー」
 
 扉のガラス窓の向こうを少しおどけて通る二人の屈強な男性教員に気が付くと囃子立て始めた。
「はい、みんなはもうすぐ給食が待ってるよ。出来上がった人はそろそろ道具を片付けましょう。まだ完成していない人は居残りだからね」

 子どもたちに声をかけながら、美以は先ほどから通る人々を訝しんでいる。この実習棟は美術室の奥に家庭科室と調理室があり、普段はそれほど人通りがない。学期末の会食にしては担任が呼ばれていないのは変だし、養護教諭がまだ戻って来ていない。誰か気分でも悪くなったのかと頭の隅で考えながら子どもたちに指示を出す。
「さ、そろそろ全員片付けましょう。もうすぐ給食だからチャイムの一分前に終わろうか。では、窓側の人から筆を洗って。廊下側の人はお道具箱を片付けましょう」
「まだ乾いていない作品は机の上に置いたままでいいよ」
 
 美以の指示を聞くと窓側の子どもたちは一斉に席を立ち片付け始めた。後ろの水場には列ができているが床に張られたソーシャルディスタンス用の丸い輪の中に一人一人静かに並んでいてふざける子はいない。時代が変わったな、と思う。自分が子どもの頃は全員が水場に殺到して、たいていケンカが始まった。待っている間にお互いの顔に絵の具を塗りあったりして、授業時間より盛り上がったものだ。
 

 そうこうしているうちに全員が片付けを終えて机の前に座っていた。いいクラスだな、四年生は。担任の森田の顔を思い浮かべながら美以は授業を終える。
「素敵な作品ができましたね。みんな今日はお腹がすいて来たね。じゃ、終わりましょうか。日直さん、お願いします」
「気を付け,礼。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「また来週ね」
 

 チャイムと同時に扉を開けて、子どもたちを一人一人見送ったあと、美以は教室の片付けをする。水場周辺の床は気を付けていても濡れるからモップで拭いた。今年から担任を外れて、学年主任兼研究指導教諭という立場になったから教室を片付ける余裕ができた。担任をしていたら片付ける間もなく自分のクラスに戻ってすぐに給食指導だ。美以は整然とした美術室を眺め渡すと満足して鍵をかけ職員室に向かった。

「美以先生,いちごがちょっと……」
「ん?  いちご?  今日の給食?  足りなかったら、あたしのナシでいいよ」
「ん? 給食じゃない?  学級の畑? ナメクジにやられた? 」
「ちょっとこちらへ」
 

 教頭の相沢は同期だから普段は悦ちゃん、美以ちゃんの仲だ。職員室だから気を使って「美以先生」だ。
「なにかありました? 」
 

 相沢は美以を廊下に促し、職員室横の小会議室を開けると内側から鍵をかけた。
「ちょっと何? そんなに大事な話? ここ、そんな学校だっけ? 」
「そう、そんな学校になった」
「何があったの? 」
「いちご……、野原いちごが四階から飛び降りようとした」
「……。いちごが? 野いちごの方? 青いちごでなく? ありえないんだけど……」
「さっき、保健室の谷川先生に連絡があって体育の丸山先生と横山先生とで救助した。奥のエレベーターから下に降りて今保健室にいる。いちごが、ミーちゃんに会いたがってる」

 つながった。
調理室方向に向かった三人は、試食ではなくて、いちごの救助に呼ばれたのか。
「でもどうやって? 」
「調理室横のトイレの一番奥の個室から明り取りの窓を開けて、外に出ようとしたらしいの。本人は、個室に閉じこもっているうちに四階ってこと忘れていたみたい。足から身体半分が外に出たところで、下を見て我に返って動けなくなったようね。首に掛けていた子ども携帯で学校にかけて保健室につながった」
「そんなことホントにある? 」
「あった。いちごは保健室で待ってる。『ミーちゃんに会いたい』としか言わないの。お願いできる? 」
「ミーちゃん……。それであたしを呼んだのね。」
「そう。『ミーちゃんの他には誰にも会いたくない』っていうから担任の山田君にはまだ知らせてない。教室で給食食べてるわ」
「わかった。緊急事態だしね」
「じゃ、お願いね。保護者には迎えに来るよう連絡したけど、いちごは会うのを嫌がってる。家で何かあったかな? 来たらしばらく校長室で引き留めておく」
 相沢はそう言い残すと小会議室を後にした。
 

 美以は小会議室に鍵を掛けると、窓際のスチールロッカーを開けてプラスチック製の衣装ケースを取り出した。中から出てきたのは猫の着ぐるみだ。美以が卒業した大学には卒業式で卒業生がコスプレをする伝統があった。美以が選んだのは猫のコスプレだった。動物のぬいぐるみを作っている会社を探し、理由を話して虎柄の生地を分けてもらった。本当は三毛猫にしたかったのだが立派なトラ猫の着ぐるみになった。
 最初は学校の忘年会の余興だった。それから時々、年に数回、美以は猫のミーちゃんになって教室に出向いた。ミーちゃんになった時、美以は何にもしゃべらない。
「みーー」
としか言わない。

 子どもたちは喜んで、美以でいる時よりもミーちゃんにたくさんのことを話してくれた。ミーちゃんにしか話せないこともあるんだな、と美以は思った。だから時々ミーになる。

 小会議室を出ると鍵を職員室に返して保健室に向かう。この時間はみんな給食を食べているから静かだ。
「みーー」
と保健室の扉を開けると養護教諭の谷川が、はっとして緊張したような顔を見せた。そうだ、彼女は今年採用になったばかりでミーちゃんを知らないのだった。が、ピンク色の合皮のベンチに座っていた野原いちごがうわーっと泣き出して、立ち上がり
「みーーちゃん、みーちゃん」
と美以に抱き着いてくると様子を見守ってくれた。美以は改めてピンク色のベンチにいちごを座らせた。横に座るといちごが頭を寄せて来たので膝の上に頭を乗せて左手の肉球でいちごの頭をポンポンしてやった。そして、右手を伸ばして机の上のメモに「神沢です」と書いた。
 谷川は瞬時に事を理解し、そっと保健室を後にした。

 いちごはひとしきり泣いた後、話し出した。
「昨日の誕生日のケーキにいちごが載ってなかったの……」
「みーー」
「ママは忙しいけど、誕生日にはいつもいちごのケーキを作ってくれた。一緒にいちごを乗せていくのがあたしの誕生日のお楽しみだったのに……。今年はいちごを乗せられなかった。あんなの、いちごの誕生日じゃない」
「み? 」
「ママは……」

 いちごの話はまだまだ続きがありそうだったが、ちょうど教頭の相沢が養護教諭の谷川を伴って給食を持ってきた。
「さ、野村さん、給食持って来たわよ。お腹すいたでしょう? もうすぐお母さんが迎えに来られるから、待っている間に食べなさい。成長期なんだから」

 お母さん、という言葉を聞くと、いちごが一瞬顔をこわばらせたような気がしたが素直に給食を受け取った。
「では、谷川先生、お願いします」
相沢が立ち去るのに合わせて
「みーー」
美以もいちごに手を振って保健室を後にした。

 保健室の扉を閉めると相沢は再び美以を小会議室へと案内した。
「みーちゃん、ありがと」
「みーー」
「『みーー』はもういいから。あなたも疲れたでしょ。先に給食食べて来て。今日は七夕給食よ」

 そうか、それで出汁の匂いか。そうめんのつゆはたくさん作ると美味しいよね。あたしはシイタケと煮干し、鰹節と昆布、全部入れたのが好きだなぁと、ぼんやり考えながら美以は猫の被り物を取った。
「はーー。疲れた。悦ちゃん、保護者とは連絡ついたの? 野村さやかさん」
「そうね、あなた去年担任してたから」
「そうそう。なかなか忙しい方なのよ。なにせ、同業者だから……」
「そう。同業者だから! 」

 相沢は、ややうんざりしたように答えた。
「教職員課の野村さんは、『今日は会議で無理です』って。『お子さんが四階から逃げ出そうとしたんですよ』って伝えたら、『学校で何かあったんですか? 』ですって。何かあったらすぐ学校のせいにするんだから! いちごはなんて言ってたの? 」
「……昨日の誕生日のケーキにいちごが載ってなかったから、ですって! 」
「はぁ? お誕生ケーキのいちご? そんなことで人は四階から飛び降りようとするわけ? 何かもう最近の小学生にはついていけないわぁ」
「そうね、私も限界かもしれない、悦ちゃん」
「そんなこと言わないでよ、美以ちゃん。アナタが頼りなんだからこの学校。野村さん、すぐに迎えに来るって。もうそろそろ着くかな。さ、給食食べて来て」

 相川が部屋を出ると、美以はそそくさと着替えてミーちゃんをスチールハンガーにかけてロッカーの正面につるした。今日は汗かいたから後で洗わなきゃ。三〇年近い付き合いだしなぁ。

 職員室でひとり、遅い給食を食べ終わった頃、美以は相川に呼ばれた。保健室に案内されるといちごの母、野村さやかが来ていた。
「ご無沙汰しています」
「その節はどうも」
「担任の山田はただいま授業中でして……」
相川が担任の不在を詫びると
「いえ、いいんです。いちごが無事なら……。四階って、びっくりしました」
「はい、こんなこと初めてで……。今日は家でゆっくりしてください」
「ご迷惑をおかけしました」
 給食を食べ終えたいちごは、素直に母親と帰っていった。
「受診を勧めた方がよかったかな? 」
と相沢が美以に聞くともなく呟いた。
「受診? 」
「児童精神科」
「同業者だよ。必要なら自分で行くでしょ。教職員課だし」
「そうね」
 それで今日の話は終わったと思った。

 担任の山田には、授業が終わってから詳細を説明することになった。教頭の相川が小会議に集めたメンバーは保健の谷川、体育の丸山と横山、と美以だ。
「山田先生は授業中だったのでこちらで対応しましたが、野村いちごの件の報告会をします」
「ありがとうございます。三限目の後、『保健室に行く。一人で行ける』と言って教室を出ました。普段からしっかりした子なのでひとりで行かせました。もしかしたら生理痛とかかな? と思ってついていかない方がよいかと思ったのです」
まだ十分若手で通る山田が申し訳なさそうに答えた。
「はい。ではそのあとのことを説明します。まず、谷川先生から」
「はい」

 谷川は、四月に採用になったばかりの新人だ。まだ研修の途中である。
「四限目が始まって、十分くらいしてから外線がかかって来ました。保健室から電話に出ると、女の子の声で『先生、助けて! 』と言いました。最初はいたずら電話かと思ったのですが、名前を聞くと『六年の野村いちご。四階の奥のトイレにいます』というので気分でも悪いのかなと思って出かけました。四階奥のトイレのドアを開けると、天窓に女の子が逆さまにぶら下がっていました。一番奥の個室のドアが閉まっていました。『野村さん……? 』と声を掛けると、『はい、降りられなくなったんです』と返事をしました。私一人では助けるのは無理だと思って彼女の持っていた子ども携帯から学校に電話して体育の教員に来てもらいました」

 現場に立ち会った丸山と横山は落ち着いていたが、話を聞かされた担任の山田は青ざめた顔をしていた。美以も改めて詳しく聞くと恐ろしくなってきた。よくも悦子は平然と“報告会”なんて言うものだと、腹が立ってきた。
「個室内の水タンクに足を掛けて、個室から出て、天窓から足を出したそうです。身体半分まで外に出て、ふと外を見たら四階だと気づいて怖くなって動けなくなったと言ってました。子ども携帯を首から下げていたのがラッキーでした」
と体育の丸山。横山も大きくうなづいた。
「奥の非常用エレベータから降りて保健室に連れて行くと、猫のみーちゃんに会いたがったから、そこで席を外しました。女子の気持ちはわかりませんね」
「私だってわかりませんよ。丸山先生」
と悦子が引き取った。
「では、ミーちゃん、話してください」
「はい、私が入って行くといちごはわーっと泣き出して……」
美以は先ほどの保健室で様子を話した。
「山田先生、ここ数日彼女に変わった点はなかったですか」
と悦子。
「いや、特に気がつきませんでした」
山田の整った横顔が蒼ざめている。感情が読み取れない。美以は胸が痛んだ。この若者にも傷をつけてはいけない。これからの長い教員人生、できるだけ光の中を歩んでほしい。美以はそう思った。
「何か質問は? 」

 誰も何も言わなかった。
「では、この件は来週の職員会議で報告しましょう。野村さんも来週から来れるといいわね。今日が金曜日で良かった! もし来れなかったらクラスの生徒には体調不良で」
「わかりました」

 山田はすっかり意気消沈した顔だった。美以は苦悩する若者の横顔は美しいなと思って見ていた。
 最近では教員はブラック、ブラックと言われるけど、小学校は土日の部活動がないからまだいいのかもしれない。土曜日、美以は午前中からホットヨガに来ている。間もなく五〇の大台に手が届きそうになってからは身体のメンテナンスをしないと子どもたちと一緒に走れなくなって来ている。
「はい、シャバーサナでお休みください……」

 タンクトップ姿の講師の声をボーっと聞きながら、シャバーサナと言うのが死体のポーズだということを美以はどこで習ったのか思い出そうとしていた。死体のようになって何も考えずに横たわっていると頭の中のすべてが空っぽになる。細く長く仕事を続けるコツは案外こんなところにあるのかもしれないなぁと思った。

 月曜日、美以が出勤すると悦子が声を掛けて来た。
「山田君、まだ? 」
「今日は、まだみたいですね」
「いつも朝イチなんだけど……。金曜日のことがショックだったのかな? 」
 朝の打ち合わせにも山田は来なかった。悦子が携帯に電話したが圏外だった。
「あの子、携帯切ってるよ。とりあえず、朝の会は美以先生が行ってきて。山田先生は出張ってことにして」
「承知しました」

 山田が来ていないことはそれほど問題にならなかった。みんな自分のことで忙しくて周囲に気遣う余裕がないのだろうか。美以は久しぶりに六年生のクラスに出かけた。
「山田先生は今日出張だから、代わりに来ましたーー」
というと、
「えーー」と言う声と「わぁーー」と言う声が半分ずつ上がって、自分は歓迎されているのかいないのか、美以は判断が付きかねたが、そこは気にせずに朝の会を始めた。職員室に戻ると、山田は無断欠勤かもしれない、とされていた。携帯がつながらないのだから。
「空いてる人で授業出ることになったから」
と教務主任に言われて、美以も貴重な空き時間の午後に授業に出ることになった。

 職員会議の後、
「山田君家に行ってくるわ」
と、悦子は若手の男性教員を一人連れて出かけていった。気になったが美以は帰った。

 山田は、火曜日も水曜日も来なかった。子どもたちにも職員室でも「出張の後、夏風邪を引いた」と言うことになっているが、来週は保護者会もあるしそろそろ警察に連絡した方がいいだろうかと管理職が迷い始めた。実家の親には火曜日に連絡したが立ち寄ってはいないようだった。

 美以は今日もミーちゃんになっている。いちごが情緒不安定で放課後になると毎日ミーちゃんに会いたがるからだ。これで今週は三日目だ 。膝の上のいちごの頭を肉球で撫でながら、たまって来た仕事をどうやって片付けようかと段取りを算段しているといちごが急に泣き出した。
「ママが連れて来た新しいパパが……、新しいパパが……」
そこで苦しそうに言いよどんで、続けた。
「ヤマダ君だったの……」
 何か、今聞いてはいけないことを聞いてしまった気がして思わず声が出た。
「み……?」
「ヤマダ君……。担任の。だから、美以先生が悪いんだ! 美以先生のせいなんだ。いちごたちを放っていくから……」
 

 放って行ったんじゃないよ! と美以は思わず叫びそうになった。年度末に転校生が出て定数の関係で五年生から六年生に上がる時にクラスを一つにまとめなければいけなくなって、年上の美以が担任を外れたのだ。若手のエースの山田君に譲ったのだ。山田君は三年、四年の担任の後、一、二年を持った後の五年生だったから、今年初めての卒担で張り切っていたのに……。だから最近の若手は! と沸騰しそうな頭の中を堪えて、少子化対策に貢献していてエライわねぇと、美以は心の中で言い換えた。
「あたし、ヤマダ君のことがちょっと好きだったのに……」

 三〇歳になったとはいえ、ジャニーズ顔の爽やかな山田君は女子にも男子にも人気だった。それが何でよりによって生徒の母親と! しかも教職員課のエースだよ! いちごの気持ちを考えると美以はやりきれない気持ちになった。そして山田の失踪の理由もわかった。
「ママは赤ちゃんができたかもしれないって、悩んでた。赤ちゃんができたらヤマダ君が困るかもしれないって。いちごの担任だから学校を首になるかもしれないって。きっとヤマダ君、心配になって学校休んでるんだよね? 」

 おいおい、そんなこと子どもに相談するなよって。自分は大丈夫なのか? 教職員課は? 貴重な若手教員を押し倒してもいいのか?
美以はできる女風のスーツで武装したいちごの母を思い浮かべた。
「あたし、どうしたらいい? あたしがいなければヤマダ君はママと結婚できる? 」
 いちご……、今からそんないい女になってどうすんの! 美以は暴れそうになる心を必死に鎮めた。
「みーー」
「みーちゃん、あたしどうしたらいい? 」
「みーー」

 みー、としか言わない設定にした自分の馬鹿さ加減に呆れて来た。この仕事についてそろそろ三〇年だ。五〇の大台に乗るまで働くなんて、考えたことなかった。美大を卒業してちょっと腰かけたつもりが、あっという間だった。最近では子どもたちどころか若手教員の変化にも、もうついていけない……。
「美以先生! 何とか言って! 」
「あ、はい」
あ、しゃべってしまった。自分の作った世界観を壊してしまったことにあたふたしながら美以は何とか誠実に答えようとした。
「いちごはどうしたいの? 」
「どこかへ行ってしまいたい。誰も知らないところへ」
「誰も知らないところ? 」
「どこか知らない小さな町でひっそりとひとりで暮らしたい」
「何寝ぼけたこと言ってるのよ、まだ若いのに」
「でも、ママがヤマダ君と合法的に結婚するにはそうした方がいいでしょう? 」
「んーー、別に法律違反ではないけど、できるだけ目立たない方がいいわね」
「ママは……、ちゃんとした人と結婚した方がいいと思うの……。これまでの彼氏はみんな柔らかすぎて、ママの仕事をちゃんと理解してくれなかった。ヤマダ君はまだ若いけど、教員だからママが仕事を大切にしてることをわかってくれると思うし。クラスのみんなともうまくやってるし、ノートのコメントの字も丁寧だし……」
「悪かったわね、綺麗な字じゃなくて」
「ううん、美以先生には美以先生のいいところがあるの。みーちゃんになったり……」
「ありがとう。で、いちごはどうするの?」
「だから田舎に行きたいって……」
「田舎……。本当にそれでいいの? 」
「うん。いいの。ほとぼりが冷めるまで田舎に隠れてる。教育委員会に勤めているママが、娘の担任とできちゃった婚したら、ちょっとカッコ悪いでしょ? それともカッコいいのかな? まだ世間的には受け入れてもらえないような気がするの。このカッコよさを。だからあたしは世間から身を隠したいの。いちごの居場所を、美以先生に探してほしいの」
「田舎の学校? 本当? 本当にいいの? いいのね? わかった。探してみる!」
「え、本当? 」

 いちごの顔がぱあーっと明るくなった。
「うん。大学の時の友達が全国にいるから。とびっきりの田舎を探してみる」
「アハハ! ありがとう。なんか、都会に疲れたんだよね」
「後悔しないでよ? 最高の田舎を探すから! 」
「最高で、最幸の田舎ね! 約束」
 いちごが伸ばしてきた右の小指を、美以は両手の肉球でぎゅっと挟んだ。
「くすぐったい」

 山田君は、いちごのママから連絡が行って、友人の所から戻って来た。水曜日の夜だ。木曜日から普通に出勤して来た。クラスの子どもたちにも、職員室にも「夏風邪で……」で通した。いちごの母親、野村さやかは木曜日の夕方に学校にやって来て、山田君と一緒に校長室に入った。無断欠勤のお詫びと、きっと妊娠と結婚の報告だろう。
「若いっていいわねぇ」
悦子が、声を掛けて来た。
「そんなもんかしら? 」と美以は答えた。
 

  **  エピローグ  **
 新しい新幹線の新しい駅で降りて、一時間に一本しかないローカル線でいちごは指定された駅に向かった。その駅でさらに小さな路線に乗り換えて、無人駅をいくつか過ぎると、急に目の前が明るくなって海が広がった。空が大きい。ついに来たんだな、といちごは思った。
「大学の先輩で、地元に帰って新しい学校を作りたいって人がいるの。ちょっと変わった人なんだけど、ちゃんとした人だから」

 美以先生が言っていたその人が、日本で先生をした後にアメリカの大学に行ってアメリカの学校で働いていたことがあると聞いて、ママはちょっと興味を持ったらしい。ZOOMで何度か話した後に、渋々ながら賛成した。ヤマダ君はママの言いなりだ。最初からこんな力関係で大丈夫なのだろうか? いちごはちょっとヤマダ君が心配だ。

 ママとヤマダ君と、生まれてくる赤ちゃんのためだけでなく、自分のために新しいことをしたいといちごは思った。田舎にできる新しい中学校に一期生として通う。自分のための学校を、自分で作り上げていく。そんなことが自分にできるのだろうか。

 列車はやがて終点に着いた。いちごは一人で、がらんとした終点の駅のホームに降り立った。小さな駅舎の外に出るとロータリーに車が一台止まっていた。迎えの車だろうか。
 

抜けるような青空を背に、いちごは車へと向かった。

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