夢日記『逃げろ』

ゴーレム佐藤

『逃げろ』

出来る限りの食料をカバンに詰め、娘の手を引いて物音立てぬよう静かにドアをあける。午前二時を回ったところだ。確か通りとこの路地の交差するところの林に乗用車が一台止まっていた。問題はどうやって音を立てずに出来る限り遠くまで移動するかだ。極度の緊張で握る掌は汗だくだった。路地は未舗装でよほど気をつけて歩かないと砂利を踏む足音がこだまする。娘に目配せして、靴を脱いで裸足で行くことにした。

 もう一体どれくらいこんな生活を続けてきたのかも忘れていた。前の街では珍しく三ヶ月ほどは落ち着いていられたけれども追手は容赦なかった。

 ある夜居酒屋を出た時、道路の反対車線に奴がタクシー乗り場で煙草を吸っているのが目に入った。一気に酔いも醒めた僕は、パニックにならぬようゆっくり深呼吸をしてから終電を急ぐサラリーマンの群れに混ざるようにしてその場を抜け出す。角を曲がってからは全速力で自宅へと駆けた。娘はまだ帰ってなかった。携帯電話を鳴らしてみるが、おそらく移動中なのだろう、出ないのでメールを送る。いまどこだ、しばらくして返事がくる、あと二駅で着くところだよ、よしじゃあ次で降りろ、改札に向かうからそこで待つんだ、うんわかった。こんな生活にすっかり慣れた娘はすぐに状況を察知した。僕は逸る心を落ち着かせ、タクシーでの移動はやめにして走ることにした。引き出しをひっくり返していくばくかの現金を握り、最低限の着替えと靴を持ち、ドアに鍵をかけてその鍵は非常階段のところの排水溝に捨てた。終電が終わった時間なのを確認して僕は高い金網を乗り越えて鉄路を走った。平行して走る道路を行く深夜のタクシーが不安を煽る。駅間およそ一キロを全速力で駆け抜けた僕は娘がいるだろう改札へ向かってまた金網を乗り越える。その場にいた娘を見つけると娘も僕に気付いた。僕は踵を返すと線路と垂直に延びた道をゆっくり歩き始める。背後で娘も距離を保ったままゆっくりついてくるのがわかる。僕は海のほうへ向かう長距離便のトラックを探していた。深夜の通り、途切れることのない車の群れをやり過ごしながら目ぼしい行き先を掲げたトラックを必死に探していた。そのときなぜ海の方へと思ったのかはわからなかったが、思いつきは確信に満ちていた。寂しい漁港へと向かうトラックを必死で止めるといくらかの現金を渡し二人を乗せてもらうよう交渉する。その間に娘は僕らに追いついた。歩道は夜中になっても徹夜で仕事をするサラリーマンでごった返していた。僕らは周囲を見回し奴がいないことを確認するとトラックに乗り込んだ。

 明け方、目的地へ着くころに目を覚ますと村へ入る直前で降ろしてもらった。僕らは集落のはずれにある一軒家に目をつけると、もうすでに真夏の陽射しで焼け始めた砂利道を二人で黙ったまま歩き続けた。

 その家はどうやら別荘のようで幸運なことに人が住んでる気配はなかった。苦労してドアについている南京錠を金具ごと壊してなんとか忍び込むことが出来た。水道は外の栓をあけると難なく出たし、ガスコンロもプロパンにまだ入っているらしく火も使えることが確認できた。電気もブレーカをあげたらちゃんと通じてはいたが、これは使うことを控えることにした。無人の家に明かりが灯ってはまずいからだ。キッチンの床下収納には缶詰や乾物など備蓄食料があった。僕らは缶詰をいくつかあけると腹に詰め込みやっと一息つけたところで緊張状態も解け、猛烈な眠気に襲われたのに任せてそのままキッチンの床の上で眠りこけていった。

 差し込む強烈な陽射しの中、汗だくで目が覚めるともう時計の針は午後を回っていた。娘も僕が起きたのに気付いたのか目を覚ます。わずかに持ってきた着替えを渡すと、シャワーを浴びてくるわ、と娘は風呂場に向かったので、食料を調達してくるよ、と声をかけ僕は外にでた。トラックで降ろしてもらったT字路まで来て周囲をうかがったが人っ子一人いない。安心して漁港へと続く坂道を歩いていった。

 三十分ほど歩くと港に着いた。村はもっと寂れたところだとばかり思っていたが、人口は少ないものの、活気ある感じだった。当然市場はとっくに終わっていたが、何人かが清掃していた。港はおよそ三十隻の漁船が横付けされていて、ちょっと離れたところには小型のヨットも見受けられた。おそらく僕らが侵入した別荘の持ち主のヨットだろう。

 清掃をしていた人に声をかけると、観光できなすったのかい、ここには何にもないが一度沖の島まで行ってごらん、なかなか楽園だよ、と屈託なく話しかけてきた。買い物がしたいんで商店がどこにあるか教えてもらえませんか、と尋ねると、今朝水揚げされたもんなら、ほら、すぐそこに見えるだろ、看板が出てる、そうそうそこそこ、まあ日用品ならそこの店んとこを左に曲がって突き当たったあたりに山川商店ってのがあるから、大体揃うだろ、と教えてくれた。

 この土地は後ろがすぐ山のせいか、店には水揚げされた海産物とともに山で採れる食料もたくさん置いてあった。つい楽しくなっていろいろ調理を考えては買い求めそうになったが、しばらく落ち着くまではやめることにした。もう一件教わった商店に行くと、ちっちゃなスーパーという感じで日用品以外にも食材が結構並べてあった。僕はパンやレトルト、ハム、練り物、味付ゆで卵など、すぐ食べられるものを買い込んで戻ることにした。

 ジリジリと照らす太陽のせいで陽炎が立つ。子供の頃不思議でならなかった逃げ水が歩くたびに新しく生まれては消えていった。

 今朝はとにかくあわてて進入してしまった一軒家だが、今後どうするかを考えると非常にまずいことをしたことに気がついた。明日にも別荘の持ち主はやってくるかもしれない。それに僕らはここではよそ者であり、観光客であるのだ。いずれいつまでも滞在はできないだろう。つぎの行き先をすぐに考えないとならなかった。持ってきた現金もそういつまでも続くほどはない、働くことも考えて行かねば…そう考えつつT字路のところあたりまで戻った時だった。

 砂埃を上げて一台の大型トレーラーがこちらへ向かってくる。ガソリンか軽油かな、でもこんなでかいトレーラーで来るほどのところじゃあるまい、と思いつつ道端の茂みへとよけた。茂みは背丈ほどの雑草が生い茂っておりこちらの姿なんか見えない筈だった。通り過ぎるトレーラの運転席から口元に笑いを浮かべている奴が間違いなくこの僕へ顔を向けた。気がついたのか?偶然か?トレーラーは速度を緩めることなく漁港へと向かっていった。

 暫く硬直していた僕は絶望に叩き落されながらも進入した一軒家に向かった。一体どうやって?なぜわかった?毎回毎回同じ疑問で一杯になる。考えている場合じゃない。とにかく今すぐはまずい。やり過ごせば奴は戻るかもしれない。夜まで待とう。

 後ろを何度も振り返りながら急いで戻ると娘は窓から海の方をぼーっと見ていた。すぐこちらに気がつくと尋常じゃない僕を見てサッと顔が蒼ざめるのがわかった。急いで買ってきた食糧を食べながら事情を話し、もしトレーラーが戻る音がしたら少なくとも一泊はここで、そうでなければ夜中にここを出ると打合せをした。まんじりともしない時間が経っていく。世界は平和そのもので鳥や虫の鳴き声しか聞こえなかった。陽は沈み満天の星空と月。午前二時。決行の時だ。

 僕らはそっとドアをあけてT字路まで裸足で物音を立てぬよう歩き出した。手には食料を詰めたカバンを持って、来るときに見かけたはずの乗用車を探した。ウインドウをタオルで包んだ石で割り、荷物を後部座席に投げ込むとサイドブレーキを外し、二人で車を通りまで必死に押した。船を使うつもりだった。エンジンをかけないまま、漁港へと続く坂道を自然の加速に任せて走らせた。遠くでエンジンのかかる音が聞こえた。気が付かれたのだ。僕らは構わず桟橋へと走らせた。一段と大きくなるトレーラーのエンジン音が僕らを狂気に追い込もうとしていたが、その時すでに桟橋の上を猛スピードで走っていた。僕らはドアをあけ、後ろのカバンを取ると、目で拍子をとりながら、一、二、三で、海へと飛び込んだ。乗用車はそのまま海へと突っ込みゆっくり沈んで行く。僕らは桟橋の下へと泳ぎ身を潜めた。桟橋のすぐ入り口までトレーラーは近づいていた。トレーラーは止まる様子もなく、この細い桟橋へと乗り上げてきた。何がなんだかわからなくなりそうな狂気の中、僕は一艘のエンジン付の小型ボートを見つけると娘の手を引っ張って滅茶苦茶に泳いだ。なんとかボートに乗り込んでエンジンをかける。外での騒ぎを聞きつけたか人家にひとつ二つと明かりが灯り始めていた。やっとかかったエンジンが悲鳴をあげてボートがすべるように海の上を走り出すと同時に、バリバリと桟橋を壊しながら猛然と向かってくるトレーラーは僕らがさっきまで乗っていた乗用車を追うように海へとダイビングしていた。

 漁港の人が言っていた楽園の島の浜辺に僕らはいた。ボートの燃料は島まで持たず、僕らは明け方までオールで漕ぎくたくたになっていた。そのままへたり込んだのだけれども、そこが本当に楽園であることに気がつき疲れも恐怖も和らいでいった。無人の砂浜がどこまでも続き、海に注ぐ小川は美しく、椰子やバナナがあたり一帯を覆っていた。この島は僕らを待っていたかのごとく全面的に僕らを受け入れようとしていた。海から森の中へと続く足跡を除いては。

(夢日記)

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