【日本について】(1)~(4)

山本幸生

(1)

私は、おそらくこの国の中に一定数存在するであろう「日本そのものに違和感を持つ」者の一人である。

以下、とりあえず私が「日本」について気に入らない点を挙げていくと、

・「人間関係」以上の価値が、少なくとも明瞭な形において存在しないこと

・発想が矮小なこと

・精神的な脆弱さ

・文化的自尊心の低さ

・主体性の消去ということが文化的に構造化されていること

・しかし、その構造というのが、実は「無構造的な構造」であること

・物事が積み上がっていかない「水流し」メンタリティ

・何かちょこちょこ自分でやっては「海外」からの文化的津波で全部押し流される、ということの繰り返しである「歴史」そのもの

・根本にある「原始的」幼児性

・考え方の根にある「貧しさ」のメンタリティ

・強力な同調圧力

・そよ風みたいな「空気」への過敏反応

等々、、

一方日本の「気に入って」いるところは

・メシが美味い

・おそらくはそのメンタルな「過敏性」というものに由来する「精神の凝縮度」

・清潔さ

。。くらい?

むろんこうした「批判」や「違和感」というのは、恐らくは自分もまたそうしたメンタリティの中に組み込まれた形で生きている、という前提のもとでの話である。つまり、私もまた先に挙げた数々の「違和感項目」を、ひょっとするとかなり濃厚に所有していたかもしれないのだが、むしろそれだからこそ、それらは強力に「否定」されなければならない、ということだ(おそらく他の「一定数」の日本違和感論者も似たような状況であろうと推察される)

私は上記のような肯定否定の「日本的特徴」というものをもたらしている、ある「原理」のようなものを想定しているのだが、それはまた次回で。

(2)

先の稿で、肯定否定双方に出てきた言葉として「過敏」というのがあったが、私はこれが日本というのを切るキーワード(原理?)だと思っている。

先天的なのか後天的なのかはわからないが、外部からの刺激に対する感度があまりにも高い、あるいはより「現代風」?に言えば、外部「センサー」の反応度がほとんど不必要なまでに高い、ということが個人的な内部での過敏、対人関係における過敏、さらには全般的な「過敏社会」を作り出している、というのが私の見方である。

この方向で先の「肯定否定」項目を見ていくと、

・人間関係優先

→感度の中でもとりわけ「対人」感度が高いため、一度その「反響」の中にはまると抜け出せなくなる

・精神的な脆弱性

→常に「あらゆる」方向からの高感度刺激にさらされているため絶えず疲労しており、より大きな圧力というものに対する耐性がない

・発想が矮小

→これも、じっくりと大きなこと、というよりはどうしても「日々の外部刺激対応」ということに精神を消費してしまう

・文化的自尊心の低さ

→自分でもこうした脆弱性、矮小性は意識されているので、基本的に「小者」感を持っている

・主体性の消去ということが文化的に構造化されていること

・しかし、その構造というのが、実は「無構造的な構造」であること

→これがまさに全般的な「過敏構造(無構造)」というもの。高感度な外部刺激の対応に追われている、という「無構造」のため、「主体」としての結晶化がうまくなされない

・物事が積み上がっていかない「水流し」メンタリティ

→日本人にとって、過去の「刺激」と現在の「刺激」はその高感度構造においてほぼ「フラット」な状態で認識されるのだが、当然「いま現在の」刺激というものにより「過敏に」反応するわけなので、常に「現在」優先であり、そこに「積み上げ」という発想は起こりにくい

・何かちょこちょこ自分でやっては「海外」からの文化的津波で全部押し流される、ということの繰り返しである「歴史」そのもの

→これは、「海外」という外部刺激に対する「過敏反応」の結果であると共に、先の「積み上がらない」ことの帰結でもある。「内部」で行なっていることが常に「過反応」によって揺れ動いているため、何があっても動かない、というほど根がはらない

・根本にある「原始的」幼児性

→これらの「過反応」というのはある意味幼児的な「受動状態」にも通じるものがある

・考え方の根にある「貧しさ」のメンタリティ

→これはもしかしたらそうした「過反応」の更に根っこにある原因なのかもしれない。。

・強力な同調圧力

→基本的に多くの人がそれぞれ互いに「過剰反応」し合っているので、それに反応できない、ということに対する苛立ちも大きい。これが「異物」に対する「過反応」にもなる

・そよ風みたいな「空気」への過敏反応

→これはまさに「過剰反応」ということである

「肯定」的な方については

・メシが美味い

・おそらくはそのメンタルな「過敏性」というものに由来する「精神の凝縮度」

→メシのみならず、文化工芸等々において、こうした「過敏反応」的体質というのは、非常に突き詰めた作品を産み出す原動力にもなりうる。

・清潔さ

→これも一種の「異物排除」の発想の帰結

要するに、もし日本というものに「問題」があるとすると、それは何かが「足りない」ということではなく、むしろ(外部へのセンサーが)「過剰である」という点にあるわけであり、仮にそれを「改善」?するとしたら、「高性能」なものを逆に「下げ」なければならない、ということだ。ここにまさしく「日本を変える」ということの根本的な困難がある。

敗戦後の時期においては、そうした「過敏」ネットワークというものもビリビリに引き裂かれ、ある意味「自由に」なった日本の人たちは、それぞれが一定程度の「クリエイティビティ」を発揮した期間、というのもあるようだが、既にシステムが完全に出来上がり、ありとあらゆるところにおいて高感度な「過敏」が反響しているような世の中において、果たしてその「感度を落とす」などということが可能なのか甚だ疑問である。おそらく高感度な中で一人感度を落とせば、単に「ものが見えていない奴」として脱落の憂き目に遭うのは目に見えており、それが肌に染み付いている若者などがひたすら「空気を読みまくる」のもごく自然なことであるわけだ。

(3)

しかし、かくいう私も、若い頃は「西洋」一点張りの風潮に反発し、「日本にも何かあるのではないか」と思った時期があって、日本の文化・歴史全般や、哲学でも西田幾多郎はもちろん、いわゆる「伝統的な」日本思想、更には近現代の結構知られた名前の人たちの本をかなり読み(なんと司馬遼太郎の本に感化されて一瞬「政治」をやろうとすらした時もあった爆)、音楽も一時「喜太郎」がいい!と思い込もうとするなど、かなり涙ぐましい?努力をしたのだった。

結局、最終的にそれらは全部「滑り落ちて」いってしまったのだが、突き詰めると何が「問題」だったかと言えば、あらゆるものについて、その背後において感じられる「知的構造」というものの希薄さ、であったように思う。つまり、極端に言えば、この国には「知性」というものが存在していないのだ。「知的な」ことを語っていたとしても、その裏側には常に何がヌルヌルしたものが流れており、数々の引用や堅苦しい用語などは、どれもそうしたヌルヌルした「川」に浮かんでいる浮遊物のようなものに過ぎない。

むろんこれはそれを語っている人の頭が悪いとか、持っている知識を理解していない、といったことではなく、たとえどんなに優秀な頭脳を持っていたとしても、体半分は常にその「ヌルヌル」に浸っていかざるを得ず、いくら大量の浮遊物を放流しても、どうしてもその隙間から「ヌルヌル」がはみ出てきてしまう、というのがこの国の無構造的な構造である、ということなのだ。

もちろん人間精神は知性のみによってできているわけではなく、いわゆる「無意識」みたいなものも含めたより広大な世界を持っている。ただ、そうした「より広大な世界」の構造というのにもある種の「位相の」強弱があって、そこが弱いと上部構造たる知性部分の消化力というのも弱いものになる一方、「強い位相」においては、どんなものでも入ってくると根本的なところで消化され、「自分の位相」に則した形の新しいものを作り出すことができる(例えば、中国などは私から見ればかなり「強位相」に思えるし、最近はややぐちゃぐちゃになってきつつはあるものの、欧米の主要国などの位相もかなりのレベルであろうと思う)

私の判断によれば、日本の深層部分における「文化的位相」力、というのは非常に弱いものであり、入ってきたものは基本的に未消化なまま先のような浮遊物となる。その浮遊物が全体としてなんとなくある種の「風景」を作り出してはいるものの、結局それは浮遊物でしかなく、何か真にオリジナルなものとして硬質に「結晶化」することはない。

つまり、教育とか、情報とかいった「表面的な」ことは単に浮遊物の量を増やすだけの結果に終わるに過ぎず、その下にあるヌルヌルは依然としてまったりと滞留しているわけであり、そこがなんとかならない限り「どうしようもない」ということだ。

(4)

先に書いた日本の「ヌルヌル」構造(無構造)というのは実に恐ろしいもので、自分は「普通の」日本人とは違って?「知的」だと思っている人や、キャラクター的に「日本人離れ」?していると思っている人も含め、ほぼあらゆる「日本関連」の人々を覆い尽くしている。

以前、すごく不思議に思ったのは、思想史や各哲学者の分析や批評などで、実に切れ味鋭い見事な文章を書く人たち(もちろん日本の)が、いざ「自分の思想」なるものを語り始めるや、急激に「脱力もの」になるのはどうしてか?ということだった。今にして思えば、例えばフランス思想を論じたりする場合、ある程度フランス、あるいは更に大きく西欧の知的な文脈の中に自分自身を溶け込ませることができるが、「自分の」思想を語るとなると自らの背景であるところの「日本」というものの文脈で語らざるを得ず、そこで先には(その人の知力によって)封印できた「ヌルヌル」というものが再び滲み出てきてしまう、ということだったのだろうと推察される。

仮にこの「問題」が解決を求めているのだとすれば(というのも、多くの人にとって私が述べたようなことは「解決」どころか、ほとんど「問題」ですらないだろうからだが)その「ヌルヌル」というもの自体を構造化する以外にない。むろんこの「ヌルヌル」というのは、その前で述べた日本の「過敏性」というものとも関連しているわけであり、過敏であるがゆえの「構造の蒸発」こそが「ヌルヌル」に他ならないのだが、その「蒸発」自体を構造化するしかない、ということである。

それに関しては私自身もこれまでいろいろやってきているわけだが、まあここではそれはおいておくとして、肝心なのは、そうした「無構造化の構造化」というのが、通常の論理や感覚の次元内では不可能であり、ある種の「虚次元」を導入して初めて可能になる?ものであるため、本質的に通常の意味での理解というのを超えたものになってしまうだろう、ということである。

言い換えれば、それは哲学というよりは一種の「神学」みたいなものになってしまうだろうということだが、ただそれは「酩酊状態」のない神学である一方、完全に地に足のついた「理性」に基づくものというわけでもなく、いわばそれらを高次元において「貼り合わせた」もの、といった感じになるだろう。

こうした「神学的」構造から何が産み出せるかは未知数だが、少なくともこれによって言説の隙間からはみ出てくる「ヌルヌル」だけは回避できるのでは、と期待している次第である。。。と、ここらで私自身も「ヌルヌル」してきましたかね笑 (終わり)

最後に一言

《日本について考えていて発狂しない者は、日本について真に考えていないのである》



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