掌編小説『バレリーナ』

南清璽

「二人とも、あなたのことが好きって。パパになって欲しいって。」

「そんな、戯れ言を。」

 正直、ドギマギとした。何食わぬ顔でムースチョコのケーキを食べる。先日のバレエの公演で会場に連れて来ていたことを思い出す。確か四歳の男の子と二歳の女の子。もちろん、彼女が水を向けたのだろうが。第一、子どもが、そんな想いを持つ訳がないだろうし…。

「戯れ言なんて。真剣よ。」

「だけど私には、妻がいる。所詮、無理な話ですよ。」

「だから、一度奥様に会わせて。」

「会ってどうする?」

「お願いするのよ。」

「何を?」

「離婚して欲しいって。」

「無茶な。」

 彼女は、バレリーナ。研究所のインストラクターでもあった。もっともそれとは違う肩書があったが、今ではそれも、忘れてしまっている。ある催しで知己を得た。その後SNSで交流して、彼女の出演するバレエを観劇した。

 このホテルのラウンジで、ケーキセットを食しているのも、そんなSNSの交流の延長線上でのことで、正直やましい下心はなかった。

「申し訳ない。そんなつもりはなかった。あなたとどうなろうなんて。バレエに関して、少しお話できたらって。そんなノリでした。」

「だったらいいわ。いっそ家に乗り込んで、奥様と直接談判します。」

 正直、それも困る。だが、ずるずると引き延しても、家に来られるだけだ。ならば、一か八かで…

「じゃあ来週の週末、此処に妻を連れて来るから。そのときにでも。」

「それでいいわ。」

 だが、肝心な話は何一つ、妻に告げられずその日を迎えてしまった。妻には、友人が君と話がしたいと云っているという、そんな口実を述べただけだった。

「こちらは、バレリーナの…」

 だが、動揺してか、上手く切り出せない。そんな私を見限ってバレリーナは、切り出した。

「単刀直入に云うわ。ご主人と離婚して欲しいの。私ち私の二人の子に、ご主人を譲って欲しいの。」

「あなたいきなり何なんですか。離婚、夫を譲って欲しいなんて。」

「だってあなたのご主人のことが、好きになってしまっもの。それってどうしようもないじゃない。」

「できない。主人は、私にとってかけがえのない人。すさんだ家庭に育った私にとって、家庭で笑えるなんてなかった。でも、主人と家庭を持って初めて、家庭の団欒を持てて笑えた。」

 そうだったんだ。いや、そう聞いていた。でも、私は、むしろ、そんなことぐらいでと、妻のことを蔑んでしまった。

「身体の弱い、私のことを慮ってくれた。悪いと思ってるけど、毎晩の食事も主人が作ってくれる。」

 妻は、病弱だった。だから、毎晩の食事は、私が作った。でも、それは本格的なものではなく、冷凍食品を使ったりした。インゲン、ほうれん草、ブロッコリーやグリーンピースなどを。でも、苦にならなかった。いわば、平衡を保つため、生きるためだと考えたからだ。

「だから、お願い。私から夫を奪わないで。」

 妻は、私がいかに誠実であったかを述べだした。それが驚くほど饒舌に。だが、妻帯者でありながら、女性に好意を抱いたことがあった。だが、決して不貞、不倫とまではいかなかった。ふと、思い出した。抽出しを整理していたら、アルバムがあった。若い時分に妻と出掛けた時のものだ。いつの間にかで整理していてくれた。つくづく、私との思い出を大事にしてくれていたんだと。そんな妻の気持ちを、つい忘れ、顧みることなしに日々を過ごしてきた。

 そんな想いが逡巡する中、業を煮やしたか、バレリーナは、そんな食事も作らない妻と結婚生活を続けてどうするの、と質してきた。

「私にも、かけがえのない存在なのです。」

気づくと、バレリーナは、席を立っていた。