「多喜二を訪ねる 当時をそのままに」  

若月小百合

 


 去年11月に三浦綾子生誕100年記念として、劇団アドック主催の「母」に小林多喜二の姉チマ役として出演した。
 この記事はその公演パンフレットに記載されたものである。

 

 台本を読んで以来、どうしてこうも多喜二が私の脳裏から離れなくなってしまったのか。その答えを探すべく、秋分の日、多喜二が昭和6(1931)年3月中旬から4月上旬まで逗留し、小説「オルグ」を執筆した当時の部屋が残っているという七沢温泉の「福元館」に向かった。
 厚木市に着くと、思わず息を呑むような景色を目にした。連なる山々ー。山のてっぺんだけを残してたなびく雲海ー。多喜二もこの景色を目にしながら宿に向かったのだろうか。
 古びた橋を渡り緑の草木を眺めながら、川沿いをまっすぐと進んでいく。そこは温泉街にあるようなカフェや土産店などは一切なく、福元館は、まるで多喜二が警察から身を隠していた当時と同じように、緑の深い山里にひっそりと存在していた。
 午の刻、お客は私と母だけだった。

 

 


 大正14(1925)年に建てられた福元館は、まるで時が止まっているかのような空間で、多喜二の本や、直筆の色紙、古い電話機や火鉢などがロビーにあった。
 内風呂は昔ながらのレンガ作りで、源泉は熱く、肌がすべすべになるような心地よさ。露天風呂もなかなか風情があり、私の身体の中から都会の喧噪が一気に吹っ飛んでいく感じだった。1930年、多喜二は、プロレタリア作家同盟を支援した活動により、特高警察に検挙され、豊多摩刑務所に拘禁されていた。多喜二の背中には痛々しい傷跡があったという。風呂場では、ブラームス原曲の「折ればよかった」を口ずさんでいたというから、身を潜めながらでも、ほんの一時でも、傷ついた心と体を労り、安らぐ時間があったのかと思うと、胸が救われる。
 フロントで鍵を借りると、多喜二が滞在していた離れを見ることが出来る。それは、福元館の向かいの山の階段を上がりきったところにあった。玄関には下駄があり、部屋の壁には丹前がかかっていた。多喜二が今もここにいるような錯覚に襲われる。
 このような寂しいところで、特高警察に追われながら執筆に集中する神経はいかほどのものであったのか想像にあまりある。
 見学を終えて、女将さんに。「今度『母』の舞台に出るので来ました」と伝えると、「どこの劇団?」「多喜二は誰がやるの?」「あなたは何役?」色々と質問された。どことなく女将さんの目が輝いているようにも見えた。映画のロケに使われたり、女将さんに多喜二の本を渡す人もあるという。普段はそれらの本を読みながら過ごしているのだと話してくれた。
 母が「多喜二さんはどういう人だったかきいてますか?」と尋ねた。「多喜二さんはね。とっても優しい人でした。常に弱い人たちの見方だったそうですよ」私はこの言葉を聞くためにやってきたのだと思えた。ただ「弱い人」という言い方は、相手を自分より弱い者だと決めてかかるように感じるので、「ハンデを抱えている人に優しく寄り添う」と言い直したい。これは私の人生のモットーでもある。皆が一人一人、このことを気にかけていれば、全ての命が輝く世の中が確実に近づいてくるに違いない。

 

   光は闇に輝く。
   母さん、闇の向こうは光だ!
   見てくれ、母さん、すべての命が輝いている!

 

  

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