私の舞踊史11

柴﨑政夫

 


 大学の方はというと、理論物理専攻ながら、いつまでも安い授業料で居座る学生を追い出し、新入生には高めの設定をして受け入れるという経営案に従わざるを得なかった。

 前年、教育実習を都内で希望したが、郷土の方がよいと断られ、演劇活動も一休みのつもりで、済ませておいた。

 加えて、この年の一次試験合格。慌てて、二次試験を欠席した。

 規定単位数は20以上越えていて、卒論を出さなかったにもかかわらず、実験成果のレポ-トがあり、3月でなく6月に追い出されるように卒業証書を受け取るよう、言い渡された。

 2次方程式一般解法のコンピュ-タプログラム作成が代替論文として採用されてしまった。

 この頃、大統一理論が提唱され、ニュ-トン・アインシュタインの時代は過去のものとなり、量子力学とその根拠発見できるような海外研究所に流出する者が出始めた。

 一方、演技研究所では半年ごとに、私は演技発表、肉体表現、琵琶法師弾き語りの復元、過去から未来への演技手法変化を紹介し、新劇の俳優たちの今後の取り組むべき方向性に至るまで、代表発表をした。

 というより、報告文書例として研究所が活用するのにうってつけと見なされた。(某テレビ局のSディレクタ-が来ていた。)

 大卒には論文通過が必要だが、私の場合、物理は都合で既存実験代替認定され、演技研究所の公開論文発表会が卒論扱いされたというわけ。

 今の大学・院生たちの論文発表を見ていて、懐かしさを覚える。

 こうして親とは25才までは自由にという約束の下、不定期雇用の生活を始めた。

 もちろんアルバイトも考えなければならぬ時代だった。

 主役希望の企画待ち状態。テレビ等は選り好みしてたので、わずか4本ほど。

 舞台、ミュ-ジカルに期待していた。それが回転木馬(リリオム)だったが、前述したように、高校向けミュ-ジカルということで、あと回しされた。

 当時、需要が高かったのは変身もの→商業施設での地方公演。

 コメディ路線の小さなギャグを含んだものまね芸。

 真面目路線と高い文学性は必要とされなかった。

 不条理演劇と称しながらギャグの連続。

 古典芸術を揶揄する風潮が時代の先取りと考えられた。

 この傾向はテレビにおいても顕著で、集団ギャグ番組の流行に。

 その中に新曲挿入。不真面目に見えた連中が真剣に歌うと意外にもバカ受け。レコ-ドが大ヒットした。

 その題名を探ると意外な側面が見えてくる。

 90%近くが、かつての名画・洋画の題名だったからである。

 アカデミ-賞の歴史にとどめる名作に第7天国というのがある。

 パリ下町の7階のアパ-トを第7天国と呼び、下水工夫が道路工夫になろうと明るい家庭作りを夢見る映画だが、この内容が「上を向いて歩こう」という歌になるのだ。

 無声映画からリメイクを経て、日本→米国で大ヒット。そういう時代、夢こそが財産だった。

 こうして「働く一般人からスタ-を」作り出す話題で収益を上げる日本独特の手法が花開く時代となった。

 いつの時代も世代交代すれば観客動員は可能である。

 まあ、映画「菩提樹1・2」は「サウンド・オブ・ミュ-ジック」だが「終着駅」「喝采」等々枚挙に苦労はない。

 広告代理店の苦肉の策である。

 言い換えれば、過去のヒット作の使い回しである。

 

 米国三大監督は倫理的主題でJ・フォ-ド、劇場芸術の手法でW・ワイラ-、日常描写と微少表現の重ね合わせで(素人演技を上手く見せる)ヒッチコック。というのが定説だった。

 

 その後の世代は、彼らを乗り越えなければ、道は開けない。

 

 戦後の映画界復興はイタリアンネオリアリズムの台頭から。

 「無防備都市」「戦火のかなた」「自転車泥棒」など。

 貧困にカメラを向ければそれで完成。といったやり方。

 戦勝国米国は、キリスト教普及に奔走。

 聖書・宗教・歴史劇等の高級大作映画や文芸映画を連発。

 イタリア女優の活躍は外資獲得に奔走。

 こうして美人コンク-ル→女優という戦略が出てくる。

 音楽もカンツォ-ネ祭りとしてのサンレモ音楽祭が盛況。

 女優と素人という映画作りはロッセリ-ニ監督とバ-グマンから始まったものだが、フランス・ヌ-ベルバ-グによってカンヌ映画祭まで。町興しが始まり、盛況を迎えた。一味違うフランス女性という描き方。

 

 しかし、10年もたつと行き詰まりを見せ始める。

 そんな時期、これを打破したのが暴力描写とエログロナンセンス。

 マカロニウエスタンと女性の裸体描写。

 カメラワ-クが広域と極小の間を瞬間移動する技法。

 史上最も影響を与えた映画が「市民ケ-ン」。

 米国非公開ながら、新聞王ハ-ストを揶揄する作品として多大な影響を後々与えた。

 見ればわかるが、ある描写からその中へ映像が移動する手法が次々と繰り返される。連綿と続く描写は違和感と恐怖の連続。

 もとの現場に戻らない、これらのつながり(シ-クエンス)は劇場芸術にはないものだった。

 こうして、広域表現から微細表現までの往来を駆使する映像芸術が出てくる。

 同時に低コスト制作も兼ね、新しい傾向の創作が始まった。

 フランス市民の日常表現と裏の顔を一瞬うかがわせる演技。

 「サイコ」の極微と広域視野から覗き趣味にまで、一連の動きとして描写する映画はイタリア映画で発展してゆく。

 これに追随するような動きを見せたのが日本映画の巨匠たち。

 暴力を殺陣に変え、風呂場をのぞく場面に変えて、作り直す手法。

 既存の雇用体制を変えずに、映像技術で戦後を乗り越えて行った。

(例外は小津安二郎、A・ルノワ-ル。「東京物語」「大いなる幻影」が有名)

 その結果、日本映画はベネチア・ベルリン・カンヌ等で大成功となる。

 固定カメラ描写は減少し、俯瞰→微細→俯瞰へと瞬間移動する映画にしかできない手法がもてはやされる時代となった。

 

 その結果、イタリアで研修し、日本にその手法を取り入れて成功した人がいる。

 監督Mと女優Wの組み合わせは、かつてない新鮮な驚きとして、一部のマニアックな映画ファンを獲得した。

 同時に、米国からマカロニウエスタンへ転身。成功するものまで現れた。

 元々スパゲッティウエスタンと称されたのが、わかりにくいため、日本ではマカロニに改称。

 劇場芸術の形式を維持し続けてきたウィ-ンやドイツの人材たちは、仕方なく家庭向けの健全映画やミュ-ジカルへと場を移す。

 こうしてディズニ-が活躍する土台が築かれる。「継続は力なり」である。

 

 日本の場合、芸術とは名ばかりで、映画も演劇も宣伝三ヶ月で成果は予想できる。継続ファンは少なく、派手さや奇抜さ意外性が受ける。

 都内で働く女性たちの娯楽は海外の薄幸な美人の人生がテ-マ。

 フランス・イタリアの美人や二枚目を見て週末を過ごす。

 我慢して日本人の伴侶を得る。→家庭におさまる。というわけだ。

 日本人男性は安全パイ。おだてて、使い回すわけ。

 月に1回給料袋くわえてくればよい存在。というわけだ。

 自立する女性像が叫ばれながらも、男性は差別する側。女性は被害者として、政治の世界に固定観念がすり込まれてゆく。

 

 話を舞踊の世界へ戻そう。

 これが男性舞踊手はというと、それ以下の存在。人権もないに等しい存在。言い返すこともできない存在だった。

 おまけにあの姿。女性を褒め称え、持ち上げ、丁寧に、もてなす下僕。

 変態と揶揄されても、やり続けるのは通常人には考えられぬことだったが。

 

 欧米の劇場芸術では、俳優、歌手、舞踊手と上下のランクは決定済。

 それが伝統。身分を自ら落とすことは自滅行為。

 その意味でいくつ落としてきたか。それが私の人生だった。

 

 ただ、学んできたものは確かなものだった。

 それが日本では正しい位置に定着せず、興業次第の歴史しかなかった。

 全ては学校組織が決めたランクに従わされていた。

 イタリアオペラでさえ、声自慢の大衆芸と見なされ、交響曲文化のドイツに比して見下された時代だったから。

 ところが、モ-ツァルトとワグナ-楽劇は上に来る。シュトラウスもそうだ。

 

 そこに必殺シリ-ズ到来。

 既存の雇用体制を維持し、悪役・手下役を適切に配し、派手などんでん返し→最後の最後に貧しい家庭生活を描く。

 世間の非情と波瀾ぶりが理不尽さを描き、殺風景な日常に戻るが、「まだマシよね。」というオチに終わる。

 「婿殿!「貴方!」のお二人は大女優なのだが、出しゃばりはしない。

 日活第3の男・永遠の大スタ-映画の憎まれ相手役。それが「貴方!」を演じていた女優。まさに賢く人生を見通した女優たちだった。

 こうして映画界は見事な転換経営を成功させた。

 

 他芸術はというと、

 歌舞伎は復活復元上演を夢に、国からの支援を求めていた。

 国立劇場への人材育成として研修生を募集したが、数年程度の研修では舞台に立てる実力にはほど遠い。

 せいぜいが馬の脚役。といってもこれ、かなり難しい。

 多くが名手に弟子入りし、忍耐が必要だった。

 その点、幼児から家族の支援を受ける家元筋の子弟は20歳前後で15年以上の経歴を持つ。

 となると、立ち役候補は既に固まっているから、研修生は忍耐・学び→その子の代で幼児から鍛錬。

 親族二代以上で夢を叶えることが可能となる職業というのが現実。

 

 まさに5才でのスカウトに乗れなかった私の悲劇がここにある。

 落語・講談は地方での稼ぎが主流。

 能・狂言は能楽堂完成直後の時代。

 日本舞踊は過去の作品復活と新作での挑戦の2面性があった。

 しかし、一般的には大衆性のある流派の師範が地方に赴き、根付いていた時代。

 地方の音頭や歌謡曲への振付で、新創作舞踊として独立する人物もいた。

 それ故、総合芸術としてのオペラ・バレエ・音楽劇等は皆無。

 NHKディレクタ-が企画した「古典バレエへの招待」といった企画は年に数回ほど。

 例として白鳥の湖の場合、主役は海外から、団員たちがプロと呼ばれ、運営に関与。不足人材は演劇関係者から。つまり、新劇俳優から音楽関係者という人材が掛け持ちする時代だった。

 その中から、舞台裏を担当する助監督や美術担当、照明担当が育ってゆく時代。

 今日ではそれぞれが、専門学校を作り、縄張りを作っている。

 こうした中に、歌謡曲、海外の歌曲、新作としてのフォ-クソングなるものが出現してゆく。

 次々に新しい語句が作られ、新ジャンルの企画が生まれ出す前夜だった。

 当時の人からすれば、フォ-クソングは米国から生まれたものだが、今の日本人にはどうでもいい言葉。好きか嫌いかで分けるだけの代物。という具合。

 おかしいという人物は「古いね」で片付けられる時代となったのである。

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