【「西洋」について】(7) (ドイツおよびドイツ系に関して)

山本幸生

 

当然のことだが、ドイツについて言うと、「戦前」と「戦後」では全く印象が変わる。かつて私が好きだったところの「ドイツ」というのはもちろん「戦前」までのドイツということで、戦後ドイツにはほとんど興味が持てない。

 

私のイメージする(というより「していた」)「戦前(まで)ドイツ」というものの特徴を挙げると

・本質的に「すべて」という立場から考える「全体主義」的傾向

・厳格な論理性

・ある種の「英雄的」な精神の崇高性

・豊かな知的「土壌」

・限界を超えて追求する精神

等々、といったところで(もっともいま現在ではかなり見方は変わっているが)誤解を恐れずに言えば、かの「ヒトラー政権」でさえ、ある意味ではこれらの要件を満たしている点で「興味深い」もののように思われた。というより、ヒトラー政権の時期というのは、むしろこれらの要素がいびつなまでに純化された形で徹底的に展開された時代であり、そして敗戦によってそれが全否定されたことで、ドイツ人は精神的にも「終わった」のだ、というのが私の解釈である(日本もある意味似たような感じだが、日本の「戦前まで文化」と違ってドイツは様々な分野でヨーロッパ世界においてかなりのレベルで「認知」されていた、という経緯から、そのダメージはより大きなものであっただろうと思われる)。

 

私が大学時代に趣味で?受けていた哲学の授業で、なぜか戦後ドイツの思想家ばかり取り上げる先生がいたが、そこで出てきたハーバーマスとかアーペルなどという名前はここのグループでもほとんど見かけない。まあハーバーマスは有名だろうが、結局は敗戦で「改心」?したドイツ人がなんとかアングロサクソンみたいに考えようと努力した結果(の思想)という感じで、確かにまっとうなことは言っているが、真っ当すぎて全然「ドイツらしくない」という点でなかなか興味がわきにくいものであった。要するに、一言でいえば、「全体主義的でないドイツはドイツではない」ということだ笑(アーペルについては何を言っていたかすら忘れた笑 あとでウィキで確認しよう笑笑)

 

カール=オットー・アーペル - Wikipedia

 

そういうわけで私はドイツ系の「戦前哲学者(作家)」は概ね関心があり、少なくとも本を通読はしている人も多いのだが、ただ一人「ニーチェ」だけにはどうしても肌が合わず、何度か著作を読もうと試みたものの、いつも数ページくらいで「むせかえって」しまうのだ。

 

面白いのは、例えばドゥルーズ等の、ニーチェシンパの他の哲学者の「ニーチェ論」というのはそれなりに面白く読めるのだが、ニーチェそのものの著作を見ると耐え難いほどつまらない、というこのギャップである。

 

たぶんニーチェ派?の哲学者たちというのは、「頭から覆いかぶさるように」考えるのではなく、「内部からの湧き上がるような」思考(タイプ)ということでニーチェに親近感をおぼえているのであろうが、その実、彼らによって「処理」されたニーチェというのはほぼ例外なく「頭で」ニーチェを解釈しており、だからこそ私にとっては「面白い」のだ、という逆説状況になっているのである。

ニーチェは「アポロン的か、ディオニゾス的か」という問題を設定したようだが、実は後の「ニーチェシンパ」というのは軒並み彼ら自体が「アポロン的」なわけであり、だからこそ私にとっては「面白い」わけなのだが、ニーチェその人はあくまで「ディオニゾス的」なところを守って?いるために私からすると「耐え難い」ということになる、というわけである(もちろん私自身は「アポロン派」であるのだが、そもそもディオニゾス的なものとアポロン的なものが「相入れない」という考え方自体に疑問を持っている。しかしこれについては長くなるのでここでは触れない)

最後に「現在」における私の「ドイツ観」というのを紹介してシメとする

・ちょっと田舎者的でドン臭い

・「自分のやり方」というのを失ったせいか、戦後ドイツは学問的な領域でも凋落が甚だしい

・実は「容貌」的なコンプレックスを持っている?

(続く)

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