新刊小説『ファム ファタル』南清璽 についての、書評的なエッセイ

原田広美

 

まろやかな筆致にして鋭利な心理描写を取り入れた本格文芸小説

 

 南さんの初刊行小説『ファム ファタル』。今のアニメ風の表紙絵もいいが、最初のものもなかなかよかったので、上に掲載させてもらいました。

 南さんの筆致は非常にまろやかでありながら、鋭利な心理描写に微妙なニヒルが纏いつく。それが甘味と毒のようであり、読む者に「読み癖」を与える部分であるように感じます。

 医療と生命維持という現実的なテーマである心臓移植手術を媒介にしたドナーとレシピエントの関係が、「オペラのアリア」「ドレス」「ドレスデザイナー」という晴れやかな世界で展開される冒頭から前半。

 

 カリスマ性を携えたデザイナーを中心に、スタッフや亡きドナー、そしてレシピエントや「私」の情愛・憧れ・嫉妬が飛び交う情景描写は、主人公「私」の観察眼の確かさがベースなのだが、楽しくてワクワクさせられた。それはゲネプロで事件が起きる直前まで続くムードとなっている。 

 

ファム ファタルとは、赤い糸で結ばれた運命の女性にして、男を翻弄し、破滅させることもあるような女性。主人公の「私」は、心臓移植と記憶移植を研究する身であると言いながら、実の関心はそちらにあったようだ。

 ただ私が新しく感じたのは、これは男の側から書いたようでいて、ファム ファタルたろうとした女性の願望が、「男達の夢と現実の間」に阻まれて途絶える物語でもあると読めたところだ。

 

 「ファム ファタルに翻弄され、破滅させられたい」という男の願望があるのなら、そこには「死」と隣接する世界が広がっているわけで、それが裏返されてしまったことの結果として、ドナーの女性の「死」に繋がったことには合点が行った。

 また小説の端々に散りばめられている~人形愛の『ホフマン物語』、モローの絵画『オイディプスとスフィンクス』、ワイルドの小説『ドリアン・グレイの肖像』と、私が特に30代から40代にかけて没頭した「暗黒舞踏の世界」に重なるご縁も再確認させられる思いだった。

 

 だが一番驚いたのは、小川三四郎の「矛盾だ」であったかもしれない。それは夏目漱石『三四郎』の女主人公・美禰子に対する三四郎の批評からの引用なのだが、「淫(みだ)ら」と「教養」が同時にある「矛盾」という意味だ。こういう女性が、主人公の「私」や、ひいては作者である南さんのファム ファタルなのだろうか。

 

 私の文芸評論家としての最初で最後の刊行は『漱石の〈夢とトラウマ〉』新曜社だが、その著者として、少しだけここに未発表の見解として書かせていただきたいことがある。

 それは漱石のファム ファタルのことである。まあ一般に「結婚」も、大きな運命と決断によってなされるものであるから、妻の鏡子のことも無視はできない。

 ただ青春期から漱石がずっと思い続け、作家になる直前にもその思いにインスパイヤ―されるようにして詩を書き、作家になって「朝日新聞」文芸欄を担当した後には、自ら発案・依頼して、連載小説の執筆を所望した閨秀作家・大塚楠緒子のことがある。

 

 拙著『漱石の〈夢とトラウマ〉』では、正岡子規と弟子だった高浜虚子、そして大塚楠緒子を漱石の文学と人生を紐解く上での重要な軸とした。   

 要するに、楠緒子こそが漱石のファム ファタルだと見なしたならば、やはりそこには「死」を交えた深い縁があったのだった。

 どういうことかと言えば、漱石は憧れる者としての愛の深さのために、楠緒子には少々無理なところのあった檜舞台「朝日新聞」に連載小説を所望するために再度近づいたことによって、楠緒子の命を縮めてしまったようにも思うのだ(楠緒子は、連載小説を未完のまま享年35才で病により早世した)。

 

 このようにファム ファタル(運命の女性)と、男の間には、互いに命をかけ合うような関係性が形成されるのだと私は思う。だが、それらはロマンチックな感受性の世界でのお話である。

 

 漱石と鏡子は、現実を生きて子沢山の夫婦となった。南さんの小説『ファム ファタル』の主人公の「私」も、ドナーからの魔法が溶けたレシピエントも健在だが、ドナーはこの世の人ではないのだな、と改めて思う。

 

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