ゴミ収集労働における「相互承認」と「追跡調査可能性」(四)

田中 聡

 

〈6〉自己の非自己化は「無限判断」と関わるのか?

 

 

 私は本連載の前回において、有機物の循環や有価物としての廃棄物の流通について論じたが、そもそもなぜ我々は、そういった循環や流通、更にはいわゆる「リサイクル」をしなければならないのだろうか?

 

 例えば自分の庭や、自分たちの共同体の領土に、廃棄物を埋め込み、混合し、その「土」での、あるいは「場所」での「自然な」循環に任せた方が良いのではないか?

 自分の家の庭に残飯を埋める人、自分の家の庭で大便をする人が存在するように。

 

 しかし、一方で自宅にそういう「土」、「庭」、「場所」を持てない人の多いであろう「都市」では、自発的に、行為的、人為的に循環を促した方が良いとも思える。ゴミ集積所を無数に作り、ゴミ収集車を全速で駆け回らさせ、清掃工場に盛大に収集してきたゴミをぶちまけ、棄てる。

 

 人為的に促す循環と、自然に為される循環が、ないまぜになっている現実。

 

 ところで免疫系は、そうした人為的な側面と、自然的な側面の二側面がない交ぜになっている、と私は考える。

 上述の循環についての二側面が、免疫系の性質と並行的になっている事に私は注目したい。

 殊に、免疫系での自然的作用が、どう人間の志向的作用と異なるのか、あるいは異なりつつも重なるのか。

 

 免疫学者の故・多田富雄氏によれば、「免疫学的『自己』というものが存在しているわけではないことがわかる。反応する自己、認識する『自己』、認識される『自己』、『寛容になった自己』ーというように、自己は免疫系の行動様式によって規定される。そうすると『自己』というのは、『自己』の行為そのものであって、『自己』という固定した「もの」ではないことになる。現代の免疫学は、『自己』の行為が『自己』を規定するという部分について、理解しようとしているのである。」(〈註〉〈1〉)との事である。

 こうした意味での人為的で志向的な「行為」と、その事で規定を受ける「自然な」自己が、免疫系においては円環している。

 

 そしてそうした行為は、曖昧な条件の中でも一応うまくいって、ウイルスや細菌などの感染の防御にとりあえず成功している。

 同じく多田氏によれば、「自己」と「非自己」は、互いに曖昧につながっている。行為の集合としての「自己」、その行為を規定しているのは、内的および外的環境のみである、とも述べる。(〈註〉〈2〉)

 

 ところで、この内的/外的環境には、無限空間での物質の無限の可能性が控えている、と私は考える。

 

 私はここに、カント的な「無限判断」が成立している可能性を考えたいのである。

 

 その為に、ここまで述べた免疫系と空間についての「無限性」と「判断」を、カント的文脈においてそれぞれに考えた上で、その「無限判断」が如何なるものかを考究したい。

 

 ここでカント的な「無限判断」について、基礎的な確認をしておく。

 

 カントは『純粋理性批判』で、「判断表」というものを示し、量・性質・関係・様態の部門の二番目としての判断の性質について、以下の如き三種の分類を施し、そこで「無限判断」を以下のように定式化している。(ここでは光文社古典新訳文庫の中山元氏の翻訳を引用する。) (〈註〉〈3〉)

 

 「二 判断の性質(クヴァリテート)

 

 肯定判断[ベヤーエンデ・ウアタイレ、AはBである]

 

 否定判断[フェアナイネンデ・ウアタイレ、AはBではない]

 

 無限判断[ウンエントリッヒェ・ウアタイレ、AはBではないものである]」(B 95)

 

 この「AはBではないものである」は、翻訳(例えば岩波文庫の篠田英雄訳)によっては、「Aは非Bである」というように定式化されている。(〈註〉〈4〉)

 

 そしてカントはこうした定式化の実際例として、以下のように、「魂」を例に取り、説明している。(これについても、光文社古典新訳文庫の中山元氏の翻訳を引用する。) (〈註〉〈5〉)

 

「たとえば魂について『魂は〈死すべきもの〉ではない』と主張したとしよう。これは否定的な判断であり、これによって少なくとも[霊魂が死滅すると考える]一つの誤謬を防ぐことができることになるだろう。ところが『魂は〈死なない〉ものである』と主張したとしよう。これは論理的な形式からは肯定的な[無限]判断であり、わたしは魂を死なない[不滅な]ものという無限な外延の一つに数えることになる。」(B98)

 

 この辺りについて、社会学者の大澤真幸氏は、以下のように手際よくまとめておられるので、参考の為に提示してみよう。(〈註〉〈6〉)

 

「『質』の観点からの判断の第一は、『肯定判断』である。たとえば、

 

(1) The soul is mortal. 魂は可死的である。

 

 は肯定判断だ。これに並ぶ、第二の判断の形態は、当然、『否定判断』である。

 

(2) The soul is not mortal. 魂は可死的ではない。

 

 判断はすべてこの二種類のどちらかに振り分けられるはずで、これ以外の判断はありえないように思える。ところが、カントによると、もうひとつ、『無限判断』と名付けられる判断がある。無限判断は、次のような形態をとる。

 

(3) The soul is not-mortal. 魂は非‐可死的である。

 

 否定判断(2)と無限判断(3)は、まったく同じことを意味しているように見える。少なくとも形式論理的には、両者はまったくの同値であって、区別することはできない。しかしカントの超越論的論理学の立場からは、否定判断と無限判断は異なっている。」

 

 さて、多田氏は、T細胞(多田氏自身の定義によれば、「免疫系を構成するリンパ球のうち、胸腺(Thymus)由来の細胞」)をめぐって、以下のような重要な事象をも記述するのである。

 

 「T細胞の働きが解明されるにつれて、予想もつかない現象が現れてきたのである。T細胞は、直接には『非自己』なるものを発見し、それと反応することはできないのである。『非自己』はまず『自己』の中に入り込み、『自己』を『非自己化』するらしい。それがT細胞によって認識されるのである。」(〈註〉〈7〉)

 「T細胞の『非自己』の認識は、もともとは『自己』の認識の副産物であることが、こうして明らかになってきた。まず『自己』に対しては反応しないように認識の構造を設定し、それをそのまま利用して、『自己』が『非自己』化したことを認識させる。」(〈註〉〈8〉)

 「一九六0年代までの免疫学が、免疫系を、非自己を認識し排除するシステムとアプリオリに規定していたのに対して、現代の免疫学は、もともと『自己』を認識する機構が、『自己』の『非自己化』を監視するようになったと考えるのである。『非自己』は常に『自己』というコンテキストの上で認識される。」(〈註〉〈9〉)

 

 自己が非自己を認識する、あるいはそうした中で自己と非自己が「矛盾」し、その矛盾を止揚する、というのではなく、自己と非自己が曖昧に繋がる中で「自己が非自己化する」という事は、自己は非自己であるという「判断」が成立しているのか、あるいは成立していく「プロセス」が存在しているのか?

 そしてこの「判断」を、「無限的」とみる事は可能だろうか?

 更には私の(それこそ)判断では、ここでは最終的には、カントが「判断」を、(ここまで言及してきた事も含めた)「行為」との関連において、どう考えていたかを明確にすることを目指すべきだろう。(今回では、それが成し遂げられないとしても。)

 

 そして、自己という「もの(物)」が存在するのではないとして、カント的な意味での「物自体」は、こうした自己を捉えるのに、少なくともカントにおいては有効な概念なのだろうか?

 石川求氏の書いておられる事を参考にすれば、カントにおいて自己と非自己の関係性は、現象と物自体の関係性にも被るものなのか?(〈註〉〈10〉)

 だとすれば、自己が非自己化し、自己が非自己であるというような「命題」は、現象と物自体における「限界・境界」の規定に関わると言えるのだろうか?

 自己という「もの」を認識するというのではなく、物自体としての非自己を規定し、構成する、というプロセスにおける関係性としての自己が存在するということだろうか?

 

 この辺りをもう少し詳細に見てみる。

 

 自己が非自己化する、自己が非自己を規定する、即ち今回の連載の前回にも述べたように、自己が非自己に反応するのではなく、自己の内部に細胞を一揃えする事で、非自己に対応し、非自己を自己のコンテキストにおいて「規定する」する、というところには、まず或る種の「判断」が働いているのか、更にはそれは判断を或る種の「行為」として捉える解釈を要請する可能性がある。

 そしてそこには「Aは非Bである」というカント的な無限判断が関わっているのではないか?

 更に言い換えれば、「Aは非Bである」というカント的無限判断のBに「A」自身が代入される時、「無限判断」は成立しているのか?あるいは成立する「プロセス」が存在しているのか?

 更に免疫系が全宇宙で、性質、位相において「無限」の可能性のある異「物」に対して、有限の要素で対応する時に、もし無限「判断」が成立しているとして、それはどのようなものなのか?

 更にその「判断」は、自己の異物を、「否定」して排除するのではなく、非自己である、という無限的な判断が働いているのではないか?

 そしてその成立のプロセスでの「時間」とは如何なるシステムなのか?

 

 即ち宇宙の中の無限の可能性がある異物に対応する、そこに正に無限判断が関わっている可能性を考えたい。

 本連載の前回に述べた、自己の内部の全一性を維持するという自己中心性の為には、そうした「無限判断」が介在している、その可能性を私はこれから考察したいのである。

 

 その手段として、まず上述の「無限判断の命題へのA自身の代入」という事を、カントによるデカルト的コギトの再定式化と共に考える。

 それはデカルト的な無限空間を、ニュートン的な絶対空間、絶対時間のフレームの批判的継承を踏まえつつカントが受け入れる中で、そうした再定式化、再編が起きている可能性があると私は推測しているからである。

 そして更に、ここで述べた諸問題の検証の手段の一つとして、空間の無限性を背景とした、視覚と触覚のそれぞれを考慮し、且つその関係性をも考えたい。

 そうする中で、カント的な無限判断の本性そのものを、おいおい明確にする事を目指したい。

 

 

 それにしても、そのように視覚・触覚を取り上げる理由は何なのか?

 

 それは以下の如きことを考えている。

 即ち現代の廃棄物は、多くの場合袋に包まれ、視覚的に完全に確認されるわけではない。触覚的に、直裁に直観的に、その中身が認知される事も多い。

 ゴミ「そのもの」、ゴミという「物自体」というのがあるとして、それから触発されて、ごみ処理する。それは記号化された、メタファーとしての触覚を、他者との間で共有し、上手くいけば「相互承認」し合っていると言えるのだろうか?

 そもそもゴミ、と名指される「物質」がある訳ではなく、人間が言語によって規定し、記号化する中でそれは「ゴミ」と呼ばれ、記号化される。更に上述の如く、メタファーとしての「触覚」で確認される廃棄物の中身によって、ゴミ収集者は動くのである。完全に視覚によって、触覚によって与えられる切るのではなく、袋に入れられるなどして、記号化される。

 これらの事への考慮へと、上述の免疫系の無限判断の問題を接続したいが為、というのも理由の一つである。

 更にこれまでこの連載で、ゴミ収集との関連で述べてきた無線ICタグ(RFID)は、正に「非触覚」「非接触」な情報機器である事も重要な背景である。

 そして何よりも免疫的自己への考慮にとって、こうした視触覚の相関は胆とも言えるからである。

 

 私は問うだろう。

 眼球から脳細胞へと伝播される光の「プロセス」は、視覚的だろうか?触覚的であろうか?あるいはその両方だろうか?

 脳細胞の中心と想定されるものに、「無限に」近づくようでありながら、その中心は不在である。

 そもそも非触覚とはどういうことなのか?

 そして、そうした「プロセス」において、どこからどこまでが「自然的」領域で、どこまでが「志向的」領域なのか、というように。

 

 こう言明し、問うた上で、ここでもう一度問題とすべき事を確認してみよう。

 

 上述の自己が自己の「行為」を規定する、そこに上述のカント的な無限判断が関係するのではないか?

 しかもその関係は、或る種の曖昧な条件において成立するのである。

 

 自己が非自己を認識し、非自己に反応する、というのではなく、自己が非自己化する、自己が非自己である、という事態へと緩やかで曖昧に移行する現象、「プロセス」が起きている。

 これは自己は非自己である、という或る種の無限判断が成立している可能性を意味する、と果たして言えるだろうか?

 あるいは、現象を前に「物自体」を「構成」する、という「行為」に被る行為の「作動」の成立の可能性があるだろうか?

 

 いわば、無限の性質、位相の可能性のある異物を、免疫系が「規定」する、「構成」する、というところに正に「無限判断」が成立している、という事が、現代の免疫系への科学的分析を元に、炙り出されたのではないか?

 観察者としての自己が非自己を認識する、というのではなく、「自己が非自己である」という「判断」が成立していく、生成していく。この「Aは非Aである」ということ、あるいはその判断の成立の「プロセス」が、生命の個体生成という事についての原理として成立すると見做されるようになったのは、実に1970年代以降である。(〈註〉〈11〉)

 

 この判断は、生命個体そのものによって「構成」されているのか?

それとも我々人間の観察「行為」によって「制作」されていくのか。いや、そうした観察-被観察という事態の不成立こそが、ここでは注目されるべきなのだろうか?

 ここではカントにおいて、「行為」との関連において「判断」をどう捉えるかを考えた上で、そこに「無限性」への認識が、「判断」とどう結合するか、の問題が控えている。

 その事を「コギトの再定式化」と共に考える。

 

 更にそこに「観察」という行為の「視点」及びそこでの「視覚」と「触覚」に通じるものをも私は考えたい。

 それはRFID、無線ICタグが、非接触、即ち触覚を使用せず、ゴミの内実を感知する情報機器である事を遠望した上でのことである。

 

 これらの事を、アルゴリズム(〈註〉〈12〉)を或る種のシンタックス(統語論) (〈註〉〈13〉)として、それの多様な群としての個体性と、その意味の造成の「プロセス」とその「時間」の問題として今回考え直したらどうなるのか?

 更にはそうした造成において、無限な外敵への対応への無限な「視点」を成立させる「時間」、「空間」、「身体」とはいかなるものか。

 

 これらの問題を、やはりカントと共に考えていきたいのです。

 

 それでは、その始動を以下で拙いながら始めてみましょう。 

 

 (今回の〈7〉〈8〉は、以前に自分のブログに書いたものを、再編集した部分が大きいです。)

 

 

〈註〉

〈1〉多田富雄著『免疫の意味論』(青土社、1995年)第十二章、220ページ参照

 

〈2〉同第十二章、231ページ参照

 

〈3〉カント『純粋理性批判』(中山元訳、光文社、2010年) B 95

 

〈4〉カント『純粋理性批判』(篠田英雄訳、岩波書店、1961年) B 95

 

〈5〉カント『純粋理性批判』(中山元訳、光文社、2010年) B98

 

〈6〉大澤真幸『社会性の起源』(インターネット上で講談社の運営する「現代ビジネス」というサイトに連載されている)の第91回「無限判断的な飛躍」より

 

〈7〉多田富雄著『免疫の意味論』(青土社、1995年)第二章、38ページ参照

 

〈8〉同第二章、40ページ参照

 

〈9〉同第二章、40ページ参照

 

〈10〉石川求著『カントと無限判断の世界』(法政大学出版局、2018年)第3章、156ページ参照

 

〈11〉河本英夫著『オートポイエーシス2001ー日々新たに目覚めるために』(新曜社、2000年)、「はじめに」の26ページ付近を参照

 

〈12〉インターネットの『Beyond Our Planet』サイトの「アルゴリズムとは何か?その基本から身近な活用例までを解説」では、アルゴリズムという語については、以下の2つの説明が、我々の問題意識に関連すると思われる。

 「アルゴリズムとは、ある問題を解決する方法や、ある目標を完了するための方法が書かれた一連の『手順』であり、とても身近な存在でもあります。」

「アルゴリズムとは、論理的な推論、抽象化、分解に重点を置いた問題解決の手法ともいい換えることができます。問題をより小さく扱いやすいパーツへと分解し、一連のルールや手順を用いてそれぞれのパーツを解決していく手法です。」

 又、「プログラム」という語との相違点については、インターネットの『Digital Marketing Forum 』サイトによる以下の解説が分かりやすい。

 「アルゴリズムは問題を解決するための計算や処理の手順であるのに対し、プログラムはコンピュータに特定の処理をさせるための指示のことを示す。つまりアルゴリズムは、効率の良いプログラムを作成するために必要な処理の方法といえる。」

 

〈13〉インターネット上に現在掲載されている、『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)なよると、「シンタックス(syntax)」の定義は以下の如きものである。

 

 「もともと言語学の術語で、言語学では『統辞論』などと訳されるが、論理学に転用されたときには、理論を論理記号を用いて表しておき、その表現の記号配列の関係だけに注目して理論の論理的構造を調べようとする分野をいう。」(吉田夏彦氏の解説より)

 

 「文法論の一部門で、文の内部構造について論ずる部門。構文論、文論、統語論、統辞論などと訳される。」(尾上圭介氏の解説より)

 

 又、同じくインターネット上に現在掲載の『デジタル大辞泉』(小学館)には、同語について、以下の如き定義が為されている。

 

 1 言語学で単語など意味をもつ単位を組み合わせて文を作る文法的規則の総体。統語法。統辞法。

 2⇒統語論

 3 論理学である言語の文を記号を用いて表し、意味と指示対象は無視して記号配列の関係だけに注目し、その言語の構造を明らかにしようとする分野。

 

 

 

〈7〉自己中心性を踏まえた自己超越する「時間」

 

 

 私の元々のテーマは「生命体はなぜ超越論的判断を必要とするか」であるのですが、そこに、(今回の連載の前回で述べた)自己中心性と自己超越がどう要されるかのインスピレーションを、更にはそれらの為の「時間」の枠組みの素材やヒントを多田富雄氏は与えてくれました。

 即ち多田氏の免疫系への観点からは、無秩序から秩序が、個別性から社会性が、偶然性から目的が、無意識から意識が、非個体性から個体性が(生命体において)生じるといったこれらのペアの概念を、対立する二項対立とそれを調停する神の超越的視点・機能において捉えるのではなしに、そうした「視点・機能」の「不在」において、自己超越を孕んだ或る種の「時間(差)」を捉える形式・感官において捉え、その上でどう生じるかの技法を捉え出す端緒を、具体的な免疫現象において提示してくれたのです。即ち、極めて自己中心的であることが、そのまま、どこにも中心がない、中心が「不在」であることに通じるシステムを、アルゴリズムの群として造成するプロセスの有り様をです。

 例えば、多田氏は、私が今回の連載の前回でも引用したように、

「超システムは、内部のルールを自分で作り出しながら拡大してゆくのだから、当然目的はなくなる。それは自己目的化した、自己中心的システムとなる。」(〈註〉〈1〉)とし、上述の「自己中心」という言葉を使っておられる。 

 しかも、これらのペアでの諸プロセスが、生命体での水平的で同時並行的に相互作用しつつ、遂行されることと、おそらくは多田氏の中では、位置付けられている。

 更には免疫系の自己区別の解明に際しての、物質的に還元する解明、説明をする事を行いつつ、(そうした還元ではくみつくせない)システムとしての全体性を解明する、という中での、還元する行為と全体性を捉える行為の違いを明確に認識しつつ、その違い、差異においてその行為の時間差と上述の「自己超越」を捉えるとば口を、多田氏は残して下さった。「無限」(後でこの概念については少し詳述させて頂きます。)の外敵(細菌等の)の可能性と、それへの対処をする有限の物質の集合のシステムへの認識において。

 

 そしてその遺産は、ニールス・イエルネのネットワーク説を批判的に継承する中で成立していると、私には思えます。

 即ち、「反応」するかしないかという「意志決定」をする上部機関をシステムの中に持たない(即ち、そうした機関が「不在」である)免疫系のネットワークが、「なぜ反応の大きさ、方向性、時間、質などが決定されるか」という問題にイエルネはうまく答えられなかった、という事を多田氏は書いておられますが(〈註〉〈2〉)、予定調和的な完結したシステムの説明としてのネットワーク説において、「時間」そのもの(それは線型時間そのものの「存立」と「選択」をも含む問いかもしれません)の在り方が、なぜ決定され、制作されるのか。そうした時間そのものの決定・成立への問いがここで起こされ、それを踏まえて、自己超越の形式が捉えられている(もしくは捉えられることが模索されている)。

 いわばイエルネのネットワーク説以降の物質還元主義的な免疫系への解明を十二分に踏まえつつも、更にそこで見出された物質の機械的な作用の生成やアルゴリズムを、十全に踏まえつつ超える、つまりは「超越」する(個体レヴェルの自己超越の)原理を見出すことは、むしろこれからの我々に任されている。

 それも線型時間と、関数空間(〈註〉〈3〉)でのその「身体性」を包括した、多様なアルゴリズムの可能性からの「選択」をも十分考慮に入れつつ、そうした「超越」を考える必要がある。

 ここで注目すべきことには、ウンベルト・エーコは、多田氏と共に行ったワークショップで「一番簡単なシンタックスの形態は、アルゴリズムです。」(田中祐理子訳)と発言したことが挙げられます。(〈註〉〈4〉)

いわば、そういう「一番簡単なシンタックス(統語論)」たるアルゴリズムをいかに単数なり複数なり「選択」し、発明するかを受け止めた上で、それだけでは機能しない個体の、コミュニケーションの「意味」が造成されるかを考慮し、その上で「セマンティックス(意味論)」を構築しなければならない、私はそう推測するのです。それは自然的な記号では尽くせない、志向的な記号を浮き彫りにしていくことを伴う可能性があります。

 これらの事に、私はセンシティヴになりつつ、多田氏の免疫の「意味論」をこれまでも現在も受け止め、又これからもそうしていきたいのです。

 因みに多田氏は「「超システム」は、多様な要素を作り出し、また多様なアルゴリズムそのものを作り出し、それを選択しながら自己組織化していくシステムである。」(〈註〉〈5〉)と述べております。

 ところで、こうした言明に通ずることを、ダニエル・デネット氏は以下の如くに述べています。

「ダーウィンが発見したのは、実際には<一つの>アルゴリズムではなく、むしろたがいに関連しあった、大きな一群のアルゴリズムであったのだが、ダーウィンはこれをはっきり言い表すすべがなかったのである。私たちは彼の基本思想を、今ではつぎのように定式化し直すことができる。

 地上の生命は、たった一本の枝分かれする樹ー生命の系統樹ーをとおして、何らかのアルゴリズムのプロセスによって、何十億年もかけて生み出されてきたのだ。」(〈註〉〈6〉)

 こうしてデネットの文章を参照して考えてみると、言わば単一ではない、一群の多様なアルゴリズムそのものの生成の基本原理に多田氏は関心があった可能性がある。

そしてその「基本原理は不明だし、まだ解明されてもいない。だから『超システム』は、それを対象として解明するための設問を示したに過ぎないのだ。」と多田氏は上述の引用箇所で述べておられる。

 私はその設問に、何とか挑んでいきたいのです。

 

 さて、これまで述べたコンテキストでの自己中心性を踏まえた自己超越をする「時間」とアルゴリズムの選択への多田氏の関心の高さは、「生命誌」で「歴史」といういわば「時間」に関連した探求をしておられる中村桂子女史と、「どうも同じ方向を向いているようだ」と多田氏が仰り(中村女史によれば)つつ、対談等のコラボレートをされたり、東京大学を定年退官された後に赴任された東京理科大学の生命科学研究所で、時間生物学に関心を持たれていたらしい(20世紀末頃にその研究所のホームページをみた時、時間生物学〈時間免疫学?〉を専攻にしておられた記憶があります)事からも或る程度推測出来るのではないでしょうか。

 更に、その研究所を退官された後に出版された「免疫・『自己』と『非自己』の科学」(NHK出版・2001年)で多田氏は、

 「こうして成立した『超システム』は、遺伝的に前もって決定されていたシナリオ通りに動くわけではない。さまざまな環境条件や偶然性などを取り入れながら、時間的な記憶を持った創発的なシステムとして、個性に富んだ行動様式を自ら作り出してゆく」(〈註〉〈7〉)とされ、やはり「時間」への関心を、前もってエスタブリッシュされた全体的なシステム(イエルネが説明したような)に欠けている要素として、多田氏は持っておられたように見える。

 例えば、「『私』はなぜ存在するか」(哲学書房・1994年)に収められた中村桂子女史、養老孟司氏との座談会で、多田氏は、

 「デカルトが『コギト』と言った時から反論はいくらでもあるんですけれど、一番はっきりしているのは直覚的自己ですね。その直覚的な自己にはどうしても勝てない。」(P53)とされた上で、「直覚的自己というのは時間とともに変わりますよね。」(P54)

と述べられ、更に子供の頃の自分はほとんど他人だと思っていて、「両棲類では成熟してから幼生に対して免疫反応なんか起こるんですね。」(P55)(〈註〉〈8〉)とも仰っている。

いわば、「時間」と共に、生の様相と目的が変化することが、上述の直覚的自己のことにおいて述べられている。

 変化してしまい、もう自分とは分からなくても、しかしその変化する以前の自分を自分に帰属することができる。そういう自己を多田氏は前提にしておられる。

 

 しかし、こうしたことを考える時にすぐに難儀なのは、免疫への科学的で物質的な分析の前提となるリニアな線型「時間」やそこで措定される免疫的記憶を取り上げることを基盤にしつつも、その基盤における分析の限界を明確に自覚した上で、そうした線型時間そのものがどのように制作されるのかを考えなければいけない点です(それは後述する、中島義道氏の「超越論的」への狭義の定義に重なるものです)。

 そこに私は、(中島氏の解釈した)デカルトのコギトを再編して出来た、カントの「超越論的」な統覚、更にはそれを前提とした超越論的判断がどう必要とされるかを考えようとしたのです(本来ならば脳神経系の担う記憶と免疫的記憶の差異を位置付けるべきでしょうが、未だそれを出来ていません)。

 

 中島氏は、「私は考える、はすべての私の表象に伴いうるのでなければならない」を、カントによるコギトの再定式化であるとしておられる。(〈註〉〈9〉)

 主体的に「私は考える」こと(更にはそこでの直覚的自己も含められるか?)は、個体性から生じつつある主体性としての「私」の表象に伴いうるのでなければならない。そのように表象される人間(多田氏が言うところの変化し続けるそれ)の主体性が必然的であるとする決定論でさえもが、人間が「過去」の記憶を、可能的に構成して成立しているものである。

 たとえ、昨晩に大酒を飲んで、自分が何を言ったか、やったかを思い出せなくとも、他者からその有様を聞いて、それらの過去の行為を自分に帰属させることが出来る。それがすべての私の表象に伴い得るコギト、私の思考作用であると出来る、その在り方を捉えだしたのが、カントの再定式化したコギトである、と中島氏は述べます(「『私』の秘密」より)。(〈註〉〈10〉)

 

 ここではそもそも、「時間」において、人間が何かを「決定」すること、あるいは「決定論」的に語り、考えるとはどういうことかそのものが問われている。

 進化にせよ、免疫現象にせよ、過去から現在にかけて「決定論」的にすでに何らかの自然法則において決定しているのか。そのことを人間が(人間の一部の科学者が)意志「決定」するとはどういうことか、という様に。

 言わば多田氏のお仕事においては、上述が如く、偶然性から目的が生じることと、個体性から主体性が生じることとが、同時並行的に捉えられているが、これは主体性を持つ科学者が意志決定することそのものが、過去から現在にかけて、主体性が個体性から生じる現象において捉えられることを、具体的に提示していることに他ならない。   (その結果、「〈私〉としての科学者は考える、はすべての『個体性から生じる主体性としての〈私〉』の表象に伴いうるのでなければならない、と上述のカントのコギトの再定式化に当てはめて、そのことを位置づけることが出来る、だろうか、となど私は推論しているのですが、まだ確証はありません。)

 

 してみれば多田氏は、上記の座談会で養老氏から「免疫的自己というのは実在なのか抽象なのか、どちらでしょう。」(P47)と問われ、上述の〈6〉節での多田氏の著作からの引用と重なるご発言として、「免疫学的な自己というものがあるかというとそれはない。自己ということがあるんだと私は思っています。ことというのが実在かどうかは考え方によって異なります。」(P47)と答えられた上で、「『自己というもの』があると考えるよりは、自己の行動様式が後天的に決まってきて、その行動様式そのものを自己といっているにすぎないのではないか」(P48)とされている。(〈註〉〈11〉)これは言わば、自己という「もの」は実在はせず、しかし「不在」という在り方、もしくは「出来事」としての存立に棹差すと言えるということか?

 この多田氏の考え方を、先のカントのコギトの話に当てはめれば、後天的に生じる自己の行動様式としての「私」の表象を、「後から」自分に帰属するものとしうる、そういうコギト、私の思考作用の在り方が、超越論的統覚と言えるのかもしれない。それは勿論、上述の科学者の科学的探求「行為」にも内含されている。

 

 ところで免疫系の中で、殊に<偶然性>が大きく機能している分子の役割を考えあわせるとき、そのようなカントの当時には考えられなかった性質を孕んだ現象に対して、決定論的な自然法則を或る程度前提にしたカントの認識論と「時間」において、既述の個体生成を理解する主体性は、「過去」にどう対し、時系列のどこにその行為を始める動因を置くべきでしょうか?

 言い換えれば、物質的で客観的に免疫現象への分析をし、描写するのが、決定論的でありつつ、そこに「偶然性」を取り入れることを、どう解決するか。

 中島氏は、『カントの時間論』(〈註〉〈12〉)において、

 

 「カントにおける客観的時間がニュートンの絶対時間とは異なり、それ自体としてではなく、あくまでも運動する諸物体の動力学的な関係との相関で理解されていることを想起しなければならない。」(P103)

 

 とする。そして一方で、

 

 「私の身体も、世界の中心に存在して、絶対空間に直接的に関係するような身体を意味するのではなく、超越論的主観と根源的に関連し、このことを通じて、常に空間関係総体の起点として機能するような身体、いわば『超越論的身体』を意味するようになる」(P64)

 

 とも述べる。

 又、中島氏は『事典・哲学の木』(講談社・2002年)での「超越論的」という項目の解説において、

「(別の語り方ではなく)物の空間・時間的配置ならびに運動を記述することによってのみわれわれが世界を客観的・統一的に語ることができるのはなぜか」という問いに関わることが『超越論的』」

とし、狭義の「超越論的哲学」とは

 「物理学が世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方はないのだとすれば、それはなぜなのか。この問いに関わること」(〈註〉〈13〉)とされている。

 前述の「超越論的統覚」に関してにせよ、「超越論的身体」に関してにせよ、ニュートン的な時間・空間を前提しつつも、しかしそれだけではなく、そこで運動する(人間の身体を含めた)諸物体の動力学的な関係との相関で、客観的時間が理解される、と言えるでしょう。

 してみれば、免疫科学の前提とする「時間」は、上述の<偶然性>をめぐってもニュートン的な絶対時間と異なる面を持ち、又私が免疫学と関連づけたいカントにおける客観的「時間」は<身体>をめぐって、ニュートン的時間と異なる面を持つ。ここで私が今まで書いてきたことが本当ならば、こうした二つの「異なり」、すれ違う面があるようである。これらのすれ違いをどう埋めていくか?更にはここでの身体と免疫的身体の異同は?

 

 これらを考えなければならない。

 

 正に、上述の「超越論的」の定義での、「世界を記述し尽くすことができないことは明らかであるが、別の仕方で世界をより客観的・統一的に語ることができるわけでもない。客観的・統一的な世界記述を求める限り、やはりわれわれは時空における物の配置と運動に着目する以外の仕方はないのだとすれば、それはなぜなのか。」という問いが、これらのすれ違い、異同をどうするかに、現れていると、私は考えます。

 これらのことへの思索で私は長い間、なかなか上手く解決出来ず、放送大学大学院で書いたカント論文『親和性が証明されるとはどういうことか』では、「視覚」と相互作用から親和性を捉え出す中で、カントが「純粋理性批判」で提示した「盲目的偶然」と「無限空間」、及び無限の「視点」(上述の超越的視点の「不在」は、そういった「無限性」、限定の「不在」と共に考察する予定です。)との関連を取り上げつつ、そうした問題を模索したのです。

 

 

〈註〉

 

〈1〉雑誌・季刊『ビオス』1号(哲学書房・1995年)、3ページより

 

〈2〉多田富雄著『免疫の意味論』(青土社、1993年)第三章、70ページ付近参照

 

〈3〉この「関数空間」を「無限次元」との関連において捉えることは、今後に残された研究課題である。

その課題に参照すべき書籍としては志賀浩二著『数学が育っていく物語4  線形性ー有限次元から無限次元へ ー』(岩波書店、1994年)が挙げられる。特に22ページ、31ページ、119ページ付近参照。

 

〈4〉小林康夫他編『表象のディスクール』3  身体ー皮膚の修辞学ー(東京大学出版会、2000年)より、田中祐 

理子の論文「免疫的生態と『身体』の接触」より181ページ

 

〈5〉雑誌・季刊『ビオス』1号(哲学書房・1995 年)、5ページより

 

〈6〉ダニエル・C・デネット著『ダーウィンの危険な思想』(青土社、2000年)、第2章第4節、70ページより

 

〈7〉多田富雄著「免疫・『自己』と『非自己』の科学」(NHK出版・2001年)、210ページ参照

 

〈8〉多田富雄・中村桂子・養老孟司「『私』はなぜ存在するか」(哲学書房、1994年)より(該当ページは本文 中に記載)

 

〈9〉中島義道著『カントの自我論』(日本評論社、2004年)より第1節〜第3節参照

 

〈10〉中島義道著「『私』の秘密」(講談社・2002年)より10ページ~14ページ参照

 

〈11〉多田富雄・中村桂子・養老孟司「『私』はなぜ存在するか」(哲学書房、1994年)より(該当ページは本文中に記載)

 

〈12〉中島義道『カントの時間論』(講談社・2016年)より(該当ページは本文中に記載)

 

〈13〉永井均他編『事典・哲学の木』(講談社・2002年)より718ページ参照

 

 

〈8〉身体と無限空間/無限分割

 

 

 ところで、今述べたように、上手くいっていないにせよ、「身体」と「無限空間」や無限の視点への私の問いには、私の中でどのようなバックグラウンドがあるのか。それをとりあえずこの文章では、以下で説明してみましょう。

 

 そこには広義の「自然とは?」という問い、更にはその自然への「個体の内と外とは?」という問いがあるのです。

 こうしたことを私は「機械(論)的」であることへの視点から、心と物・世界を二元論的に分けるのではない中での世界の立ち現れ、更には自己区別についての「境界」へと自分の問題が移行していったことに準じて、考えたりもします。

 ここで、そうした議論にとって重要である「個体」と「主体」へ、極めて不十分であることを重々承知で、議論を始めるためのみの暫定的定義を与えておきます。

 個体とは、自己同一性を表出するための外的な記述によって、その性質が表されるものである。主体とは、そうした自己同一性を表出しつつも、そこでの外的記述に留まらない自己規定をも、(自然、世界における)広義の外部との相関関係において表出する、あるいはされるもの。又はそうした中で他者であれ、外の「世界」であれ、何らかの「外」から何かを受け取り(把捉して)、又同時に「外」へと何かを発出すること、その過程で現れる相関関係の持続の(統一ある)表象が主体と言える(そして「個体性」「主体性」はこれら「個体」「主体」の「性質」である)。

 それでは、その自己同一性の内の「同一性」とその指標をどう定義すれば良いのか?この辺りの一連のことを物質の内実とその変化と、その物体としての表れを、電子の実在性等を考慮に含めた機械論的自然観を考慮しつつ考えるとどうなるのか?このことには一筋縄にはまだ答えは出せないものの、自分の来歴や過去の思索からどういうことをこれから自分が考えるべきかを少し示すくらいは出来るかもしれない。以下からそれを開始してみましょう。

 

 私は小学生の頃に、コンピューターによってプログラムされ、コントロールされた演奏をするシンセサイザー音楽によって音楽に目覚めました。その音楽経験は、音楽の作り手のメッセージを受け取るという側面よりも、機械的な音とリズムに接することで、世界の立ち現れ方を変えていく側面が強いものでした。作曲者の内面を演奏者の内面で解釈したものを、人間の肉体で演奏する、そうする中で作曲者・作詞者等の内的メッセージを読み取ると言った関係ではなく、機械的で人間の肉体性を徹底して抑えた上での演奏をされたものを聴くことで、むしろ逆にイマジネーションを強く世界へと向け、世界の相貌そのものを変えていく、そう言って良いでしょうか。それは、小学生の頃に描いていた絵画も含め、現代アートの個体とその内外の相貌自体を変える程のインパクトが私にはあった。

 機械的なリズムやメロディーに接することで、むしろ自然における、機械的にのみには割り切れない生命の相関関係を孕む世界を立ち現わしめることが出来ていた。後知恵的に子供の頃の自分の感性を位置づければ、そうも言えるかもしれない。

 そうした過程はいわゆるメロディー性のある、楽音で構成された、現代で「普通」とされる(などというと何が普通なのかと語弊がありますが)音楽だけでなく、世界の相貌と相即的な何でもない音、ノイズ、環境の音を音楽として受け取る、更に翻って音楽の環境性を逆に注意深く観察する、そんな自分の志向性を造成した気が致します。それは、自然に現代音楽(ミュージック・コンクレートやサウンドスケープ、そして電子音楽を含めた)を受け入れる土壌を自分の中に作って行った気も致します。

 

 そしてそうした中で自分に起きてきた問い。

それは「誰かの何らかの『主体性』の内面としての心(作曲家や演奏家の)があり、それが表現したものを聞き手の内面が受け取るというのとは異なる、自己と音楽の制作者・発信者という他者との交信と世界の立ち現れ、という関係性を捉える際の『個体性』とは何なのだろう?」

 言い換えれば、「内面としての心と外部としての世界、という主観/客観の二元論ではなく、世界を受け取る行為(「主体」)と世界の立ち現れ。そうした出来事の過程での『個体性』の輪郭、『境界』とは?しかも上述のように生命の相関関係におけるそれとは?」

 そんな問いと言えるでしょうか。ここでの相関関係とは、冒頭の個体、主体への暫定的定義と照らし合わせれば、外から何かを受容し、又外へと何かを発出することがそのまま自と他を区別することになり、主体性の発生に通じてゆく作用総体と言っても良い。

 ここでの問いに立ち向かう時、近代科学の進展において、世界に存在する「立方体」(cube)としての「物」の主観客観の二元論的表出とその克服ということがまず第一のラインとして考えられ、そのラインで得られた視座からする免疫系という生命の「身体」(立方体の一種としての)でのシステムで定義された自己と非自己とそこに見出される生命の個体とその自他や外界への「境界」の科学的知識は重要な足がかり、言い換えればさらなるラインになる、私はそう思っているのです。このことは最後のまとめでもう一度書きます。

 ところで例えば絵画において、そうした「境界」という事を考える事が私にはあり、その時に私の念頭にあるのは、例えばピエト・モンドリアンの「樹木」の立方体的(cubic )に表現された絵画の様なものなのです。

 モンドリアンの樹木の描写の試行錯誤の過程において、いわば「物」(事物)としての樹木が、その具体的な形象を脱色化され、次第に抽象化されていく。

 そうした過程において、個体としての樹木とその外界の「境界」そのものが「曖昧」になっていく、樹木がある種の「場所」そのものになっていく。

 嘗て哲学者の大森荘蔵氏がキュービズムについて述べたことを参考にすれば(〈註〉〈1〉)、立方体は例えば机を例に挙げれば、机という物、即ち三次元物体と机の知覚正面という知覚風景(面として境界として空間に接する)の両義性、二元的性質において人間に現れてくる。そして立体形状の「意味」は任意視点からの見え姿、立方体の知覚正面の「無限」集合に内在するのであり、世界に存在する無数の立方体を描出するとは、事物をそのまま描写するだけではなく、限定された或る視点、或る場所からの描写という要素を抜いてゆき、「無限」な多様性をはらむ視点からの存在であることを浮かび上がらせていくことを内包し得るものである。こうした中で、机という三次元物体とその知覚正面の無限集合の意味とを、重ね合わせていく。

 それは樹木という立方体についても当然同じことが言える。そして無限の視点を想定することは即ち「空間の無限性」を表出することでもある。

 こうしたことは絵画としての技法の変容ということもさる事ながら、「境界」を超えた複数の国家等の様々な共同体からの視点を或る単一のものからの視点に限定するのではなく、(宇宙)空間の無限性に直面する「地球」とそこでの生命の連鎖の存在を表しているようにも私は思えるのです。

 更には、先に述べた多様なアルゴリズムを内含する系統樹としての進化の「樹木」のメタファーとも考えられてくるのです。

 モンドリアンが活躍した時代は、様々な科学的発見によって宇宙や生き物等を内包した広義の「自然」の構造が機械(論)的で物質還元主義的に次々に解明されていく過程であったことでしょう。やがて「量子力学の基本粒子の無区別性」も問題として浮上してゆく。そうした過程で発見された事実は、或る場所や或る個体であるからこその特性を脱色化していくものだったのかもしれません。樹木の葉なら、或る場所の或る樹木の或る位置(位相)にあること、色彩等を剥ぎ取り、分子レヴェルに分解、分析する。そして「立方体」としての側面が如何なる性質かを、「空間的位相」とその視点において分析せざるを得ないことがあからさまとなっていく。そうした還元主義的分析の流れを拒否するのではなく、むしろ大前提とする中で、上述の如く立方体の多面性に準じた(無限性を孕んだ)多様な視点を成立させていった、そんな歴史があるように私は思います。このことは電子の実在性を考える際の視点、更にはその視点成立の時間点・同一性)ということにも共通すると思われます。

 

 

 この辺りを、以下でもう少し詳細に辿ってみましょう。

 

 物質を細分化していって電子に行き当たったとします。この電子を暫定的に究極の実体と見て、この実体が位置を移動し、性質を「変化」する(例えば上述の樹木の葉及びその葉脈の電子もここでの議論の対象に含まれる)、その幅が「瞬間」ということになるのか。しかしそう言い切れない多くの要件があります。

 例えば素粒子はそれぞれ絶対区別出来ない。電子は「この」電子と「あの」電子は区別出来ない。「今」ここに電子があり、次の「瞬間」にも同じ場所に電子があったとする。その時、「ここ」にある電子は、一瞬間前にここにあった電子と区別出来ない、同じであるか、「同一」であるかは認識しえない。次の瞬間にもここにある電子は、さっきここにあった電子と同じだとか、そういう類いのことは一切言えないのです(先に述べた「量子力学の基本粒子の無区別性」)。

 これは当たり前のことであって、電子は完全に数学的性質で「記述」(上述の「超越論的」の定義を参照のこと)される。電子というのは自己同一性がない。数学的性質で完全に同じものは完全に同じものであり、完全に同じということは個性、さらには個体性がない。

 こうしたことから、電子Aが電子Bと同じであるとかないとか、そういうことが定義出来ず、その相等性によって、「瞬間」の切れ目、入れ替わりの表現をそこに見ることが出来ないとしたら、さらに「電子」が無機物であり、自己区別出来ないとしたら、「瞬間」はどう定義されうるのでしょうか。その入れ替わりに伴い得る視点は、どのように知覚正面としての電子を捉えるのか?

 それでも物質の分割にこだわらず、あくまで「個体性」を有するものを「実体」として、その変化、性質において、「瞬間」は指示されうるとするのか。しかし「個体性」自体の定義が一筋縄ではいかないことは、先に確認した通りです。

 しかしそうであるにも関わらず、上述の「個体」への定義での困難、循環を解きほぐしていく上で、是非ともこの「瞬間」について考慮しなければならないのです。

 それでは「今」という語はどうでありましょう。「今」と「今でないもの」、今と非今という概念の「区別」によって「瞬間」は規定されうるのか。しかしでは「今」とはなんでしょう。「今」とは現在只今の瞬間であるというと、これも循環的定義になってしまう。

 「瞬間」とは正にその語によって指示し、かつ指示される、という受動/能動の中にこそあり、嘗てカントが<表象>に二重性を与えたように、「瞬間」そのものが、「表象」として成立し得るのか、それも背後に「実体」や「基体」があるかどうかということ自体が定かではない概念なのだと私は推測しております。しかしそうであるにも関わらず、「瞬間」という語を使い、それにより内包されていく物事があるとしたら、それはどのようなものなのか。私は分からないながら、頭を抱えつつ、そう問うてしまっているのです。

 

 さらに上述のようにして、幾何空間が無限に分割され細分化され(無限の視点の位置を得)ていくことと、そのような分割では分けきれない単純実体がどこかに存在しているのか。このいわば古くて今尚或る意味で続いている問題についてどう考えるかで、「瞬間」という時間「点」(幾何学的な「点」によって表出される。)への定義、及びこの語への「内包」ということ自体の意味が変わってくる。猿や花や木とは違って、こうした「空間(性)」の分割へ内包されていくか、もしくはそれをどう認識するかということが、ここでは絡んできてしまう。

 そして「同一性」が観測されないにも関わらず、電子が実在するという時の、無限に多様な視点からの知覚正面と、そこに電子が存在するということ。このことを主客二元論として分けずに捉え切るにはどうしたら良いのか?

 さらには空間の一部としての、(個体としての)「物体」という概念が、どう生成し、そうした物体が分割されていくこと、そこに実体が位置づけられること、このことを考慮に入れた上で、「瞬間」という概念を、さらにそのことの「意味」「内包」を考えなければならない。

そうした中で、上で述べたように或る事物と空間の境界が曖昧になる。事物とそれが存在する場所・空間がどこで区分されるのか?

 こう問う事が出来るかもしれません。

 

 このように、「自然」への機械論的で科学的な観点に最大限の敬意を表しつつも、それ自体から生じた多様な視点と、そこから浮かび上がる生命の全体的な連鎖を扱う時、上述のように「曖昧」になった樹木と外界の境界を、意味論的にどう設定するのか。それがただ機械論的には割り切れないとしたらどうすべきなのか。私はそうしたことにとても関心があるのであり、繰り返しになるようですがここで先に予告的に挙げた事を言い直せば、多田富雄氏の『免疫の意味論』での免疫学的な生命の「個体性」の、身体という立方体においての「意味」論的な扱われ方、生命の自己区別(自己同一性)などは大変に示唆的であるのです。

 科学的な観点において、「機械(論)的」であることを拒絶するのではなく、むしろ正面から最大限にしっかり受け止めた上で、しかしもう一回機械論的には割り切れない「個体性」の「意味」をどう構築し直すか。そして、物(外の世界での)と心の二元論へと分かれていること、「分断」を如何に克服するか?

 これは哲学的にも現代アート(現代音楽を内含した)的にも通底する問題であると、私は推測しているのですが、如何なものでしょうか? 

 

 こうした問題意識を、現代の科学的問題、特に免疫の分子論を鑑みつつ、私は考えようと思っております。

 

 その思考の道筋に伏在する、物質を「無限」に分割する過程、プロセスにおいて、原子、電子へと言及する際の「無限性」と、或るモノを「無限」の「視点」から、無限の側面から観測する、その「行為」による知覚世界の描像の無限集合について言及する際の「無限性」、これら二つの無限性の重なる点と相違点については、冒頭に述べたどこにも中心がないシステムということからも、極めて興味深いものを感じながら、今回の文章では取り敢えずはその問題意識のとば口のみ示すに留めておいて、今後の課題とさせて頂きます。

 

 次回は、ここで浮き上がってきた課題を、〈6〉で述べた視覚に関わる「視点」と、新たに導入する概念である「否定性」を考慮しつつ、その否定性が、今回の最初の方で提起された「無限判断」の「判断」としての成立にどう関わるのかを考察し、同じく〈6〉で述べた、「行為」との関連における「判断」を検証しつつ、可能なら触覚及び接触、非接触の事を、無線ICタグ(RFID)をバックに置きつつ探求したいと考えております。

 

 

〈註〉

 

〈1〉大森荘蔵著『時間と存在』(青土社、1994年)より第4章「キュビズムの意味論」を参照