矢野マミ
4.死ぬ瞬間
友人からメールが来たので、彼女の了解を得て紹介する。
「先日、母が亡くなりました。入院して、すぐには会えなくて(今はまだ一般病棟でも面会が制限されているから)1週間くらいしてから洗濯物を交換に行き、ナースステーションで看護師さんからメモを渡されて、それが遺書みたいだった。
『大変お世話になりました……』
養女だったせいか、母とはそれほど仲が良くなくて……、でも私のことをすごく可愛がってくれていたのは、わかっていた。高校生の時の毎日のお弁当がものすごく手が込んでいて、昔の友人たちから『あのお弁当のお母さん、元気?』と時々聞かれるくらいだったから。
『教室で冷たい白ご飯が食べられない』と言うと、母は朝から酢飯を作って、海苔巻きやちらし寿司、お稲荷さんに、そぼろご飯、などを日替わりで作ってくれた。おかずは鶏ささみのフライ、卵焼き、緑色に、ほうれん草のお浸しか、インゲンの胡麻和え、フルーツはうさぎりんごが定番だった。
お料理が大好きだったのに、最後は何も食べさせてもらえなくて、メモをもらってから2週間くらいで、あっという間に亡くなったのが本当に可哀そうだった。」
「あっという間に人は亡くなる。」本当にそうなのだろうか?
私の母は、トラックと正面衝突しても死ななかった。5人乗りの乗用車で、乗っていた人のうち、二人は死亡、一人は半身不随、乗用車を運転していた人が居眠りしていたので交通刑務所に行き、母だけがしばらく入院して、ひっそりと日常生活に戻った。
あれから、20年経つ。
人の生死を分けるものは、何だろうかと考える。考え続けている。
事故にあって、亡くなる人、助かる人。病気になって、亡くなる人、助かる人。
免許を取って間もないころ、夜半に車を運転していると、全身に激しい衝撃を感じて停車した。
バックミラーの中で赤いランプが次第に小さくなり消えていった。ミラーには、何かしきりとキラキラとしたものが映っていて綺麗だった。宇宙人に遭遇したのだろうか。
車を降りて、そっと近づいてみると、粉々になった銀色の破片があった。車に戻ると、右側のドアミラーが根元から見事にすっきりと取れていた。おそらく居眠り運転していたのだろう。対向車はもう影も形もなかった。周囲は真っ暗で、どの家も眠りについていた。あと30㎝ずれていたら、正面衝突して死んでいたかもしれない。
これが、今のところ私が最も死に近づいた瞬間だ。
5.マミ流「マインドマップ」の描き方 ~2023年の自画像~
マインドマップを始めて、まもなく半年になる。マインドマップ、という言葉を知ったのはずっと前だが正式に習ったのは2022年の夏だ。もっと早く始めておけば良かった、と思った。気になっている人は、早めにぜひ!
この連載が始まって1か月。「次は、マインドマップのことを書いてみたら?」
珍しく広美さんから提案があった。それで、この連載についてマインドマップで描いてみた。
中央の絵は「セントラルイメージ」と言って、全体のイメージを象徴する。A3の紙に対してグレープフルーツぐらいの大きさに描くのが最適らしい。私はいつもセントラルイメージが暴走ぎみ。
初めに四つ葉のクローバーを描いた。矢野マミのシンボルマーク。次にクローバーを囲んで丸を描いた。これは、まどかの〇。少し寂しいので、〇に羽をつけた。小さく。次に、ブランチと呼ばれる、太めの枝をセントラルイメージから伸ばし、言葉を乗せていく。ブランチの節にひとつずつ。
しばらく文字を書き込んだら、セントラルイメージが貧相なのが気になり、羽を大きくしてみた。中央に鳥の頭を描いたらフェニックスができた。最初、鳥は〇の後ろにいたのだが、色を塗って行くうちに、卵の中から出てくるように変更した。それでしっくり来た。生まれたてのフェニックス。
4行詩風にまとめてみた。これは今の自画像だ。(注:2022年12月20日頃。23日に広美氏に送信)
まどかの卵の中で、健康と幸福を両の翼に、新たにフェニックスが誕生する
その心臓の4つの心室はクローバー
卵の殻が付いたまま、走り出した私は矢野マミ
頭に7つの宝石を宿した光る冠をつけて希望の唄を歌う、Hope, Hope, Hope
描いている途中から、フェニックスを大空に飛ばせたくなって、次のマップを描いた。
2023年のわたし。大空に向かって羽ばたく不死鳥
愛とやさしさに包まれて、愛を感じて、I(自分)のために、自分を生きるために、大空を駆ける
Love, Love, Love. My dreams come true
古いわたしは、すべて地上に置いていく
ここまでを12月24日までに描き終えた。
右横が空いていたので円を描き、中にナバホの祈りの歌を書いた。
「幸福が、そこに ありますように。
成功が、そこに ありますように。
健康が、そこに ありますように。
満足が、そこに ありますように。」
12月29日に、隣の市の大きめの本屋さんに行って、角川文庫版の手塚治虫「火の鳥」を大人買い。全14巻を、黒豆を煮ながらちまちまと読み始め、元旦に読み終えた。
円の中のナバホの歌の上に、「美」の一文字を書く。
数年前から、前の年の12月に「次の年の一文字」を決めている。というか、「降りてくる」のだ。今年は、「七」の文字が最初やって来て、次に「美」がやって来た。今年の漢字は、二文字でもよいか?
1月2日の朝、円の周囲にBeautifulと書き、最後に次の二言を加えた。
「世界で一つの私に幸あれ!」
「私を叶えて生きていく」
大晦日、紅白歌合戦のSuperfly「Beautiful」のサビが飛び込んできて、それからマントラのように心の中で唱えている。
「世界で一つの私に幸あれ!」
私はこんな風にマインドマップを描いています。
6.教員「心の病」コロナ響く
タイトルは2022年の年末、12月27日(火)の朝日新聞の記事の見出しだ。以下、引用する。
「昨年度に『心の病』で休職した公立の小中学校の教職員は前年度比694人増の5897人で、過去最多を更新したことが26日、文部科学省の調査でわかった」という。「5千人を上回るのは5年連続」とあるが、掲載されているグラフでは、10年ほどずっと5千人前後で推移している。
コロナの影響は多少、響いたかもしれないが、教員の心は、もっとずっと長い間、病の危険にさらされてきたのではないだろうか。
思えば、子どもたちがまだ学校に行っていた頃、担任の先生はよく休んだ。上の子どもの学年は、中学校を卒業するまでの義務教育の9年間で、7人の担任のうち3人が病気で休職した。約半分である。いずれも3か月ほどで復職したが、子どもたちは「学校の先生は、心を病んで休むもの」と思っているかもしれない。二人は精神疾患(うつ病)で、一人はクラスの生徒から授業中に足を蹴られた負傷が原因だった。
小3の時のクラスは、完全に学級崩壊していた。授業参観では、4人の教員がクラスに入っていたが、私語がやまず休み時間のようだった。2本の鉛筆でドラムのように机の端をずっと叩き続けている子、立ち歩く子、教室の一番後ろの廊下側に座っている男子は、授業参観だというのに平然と机の上に「ジャンプ」を広げて読んでいた。思わず「今、何の時間?」と聞くと、「誰のお母さん?」と返って来たので、うっかり注意して自分の子どもが虐められたらタイヘン、と名乗らなかった。
後悔している。
たくさんの保護者も参観に来ていたのに、誰もこの惨状に声を上げなかった。
「止めて!」
「これはもう授業ではないでしょう⁉」
声を上げて、「これは授業ではない」と叫べばよかった。私も共犯者になってしまった。
学校から帰って来て、子どもには「先生をお母さんだと思って、助けてあげて」と、良いお母さんみたいなことを言ってしまったことも、ずっと後悔している。
授業中に先生がクラスの子どもに足を踏まれて、足の甲を複雑骨折して休んだのはそれからしばらくしてからだった。3か月ほどして戻って来られたが、今度は、別の子どもが授業中に蹴られた。
蹴ったのは、同じ男の子だった。ややあって、その男の子は教室から姿を消した。家族そろって町からいなくなったので、保護者の仕事の都合で転校したのかもしれない。
その学年が6年生になった時にも、ベテランの担任の先生が3か月ほど休職し、万全の体制で迎えた中学校の1年生でもやはり、学年主任と担任を兼務していた先生が、しばらく休職された。
小学生の頃は、学校の先生は万能だと思っていた。何でも知っていて、困ったことがあると何でも解決してくれるスーパーマンみたいに思っていた。学校にはいろんな子がいたけれど、長く休む子どもはいなかったので、「不登校」という言葉もなかった。
私たちの社会は、何を間違えたのだろうか。
教員が「心の病」を得て休むのは、もう個人の資質とか性格とか指導力とか、一つ一つの学校の組織に起因するものだけではないだろう。改善されない長時間労働、保護者の理不尽なクレーム、給与水準に見合わない職責、子どもたちが持ち込む携帯電話やゲーム、教室の中の経済的格差の拡大。
ひたすら学校教育が崩壊していく社会の闇の責任を、学校や教員だけに押し付けるのはもうやめませんか。
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