初投稿エッセイ*変わりゆく故郷~紫陽花の坂道にて

西之森涼子

 明るい夏の日差しに光る水面、川底の小石が宝石のように美しく見えるのは水が澄んでいるからだ。

 その宝石たちの上に、影を映して小さな魚が泳いでいく。

 幼い頃から見慣れた故郷の夏なのに、いつまでも見飽きずに川辺に立っていた。

 帰り道、2羽の鶺鴒がチョンチョンと私の前に現れて道案内をしているようだった。

 東京の西端あきる野市は、20年ほど前に旧五日市町と旧秋川市が合併して生まれた市だ。

 合併する際に取り交わされたのは、旧秋川市のあきる野台地は発展させ、旧五日市町は美しい自然を残す、ということだった。

 20年経っても、川も山も美しい。確かに約束は果たされたのだろう。

 しかし、失ったものも当然ある。

 苦労の多い人生だった父方の祖母が好きだった盆踊りが、その一つだ。

 五日市町は「五日市音頭」という独自の民謡を持つ。この音楽が流れると、檜原街道の交通を止めて浴衣を着た多くの女性達が踊り始める夏の行事が、かつてあった。この踊りの列は、約2キロ先の駅に向かっていく。

 踊りの列が駅まで到達したその時、河川敷で盛大な花火大会が始まるのだ。

 それが、毎年夏の風物詩となっていた。

 あまり目立つことをしない祖母が、それは楽しそうに踊っていた姿が記憶に残っている。

 親戚で食事をすること、本を読むこと、そしてこの盆踊りが慎ましい楽しみだったのではないか、と思うほど祖母は質素で地味な人だった。

 父を含む4人の息子と2人の娘を生み育て、教師だった祖父を支え、戦後貧しい生活ながら祖父の両親の面倒まで見て必死に生きた人だ。

 東京の秘境と言われるほどの場所だが、田舎といっても肥沃な土地ではない。豆と芋がやっと取れる土地で毎日十人家族の食卓を整えることは、どんなに大変であっただろう。

 その時代の母親の多くがそうだったように、いつも自分の分を子供達に食べさせていたそうだ。

 目が細く丸顔童顔で、いつもニコニコと笑っていた祖母だが、父や叔母たちから聞けば聞くほど苦労の多い人生だったと知った。

 亡くなる数年前、

「年末に沢山の煮物を作るから、野菜の皮むきを手伝ってほしい。」と言われて、妹と二人で祖父母の家に行った。同居している叔母と従妹、妹と私、祖母の女5人の作業である。

 もともとおしゃべりな妹と私は、里芋の皮剥きを手伝いながらずっとおしゃべりをしていた。

 お正月になって新年の挨拶に行くと

「年末には手伝ってくれてありがとう。本当に楽しかったよ。」と嬉しそうにお礼を言ってくれた。

 妹と私の他愛ないおしゃべりを聴きながらお正月料理の準備をした時間、そんな些細な時間が祖母にとってはとても幸福な時間だったのだ。

 何気ないひと時にとても喜んでくれた祖母を見て、もっと前から手伝いに行けばよかったと思ったものだ。

 欲のない祖母が、もう一つ楽しみにしていたのが新聞小説を読むことだった。

 八十歳を過ぎた時期に白内障で文字が読みにくくなった祖母は、小説が読みたいから、という理由で手術を受けることにした。

「そんな年で、何も手術までしなくても。」と心配されたが、祖母に似て読書好きな私は、その気持ちがよくわかった。

 ある正月、祖母が熱心に読んでいた新聞小説がテレビドラマ化された。いつものように正月親戚で集まっている最中に、祖母はふっと席を離れて隣のテレビの部屋へ移った。

 そして「涼子ちゃん、一緒に観よう。」と言って私を呼んだ。私も、その新聞小説を読んでいたので、話が合ったのだ。

 祖母が亡くなり、彼女が楽しみにしていた盆踊りもなくなった。旧五日市町の花火大会もなくなった。

 祖母が亡くなったのは、町が市になって数年後なのだが、それまであった行事が少しずつなくなっていったことが、私の中で喪失の記憶として重なっている。

 盆踊りの他になくなったのは、映画祭だ。これは、旧五日市町の高校生が映画館のないこの町に映画を、文化を、という熱い思いで始めたものだった。

 五日市映画祭があきる野映画祭と名を変え、場所も旧秋川市へ移して続けていたが、昨年最終を迎えた。これは町の合併が原因ではないかもしれないが、ほぼボランティアであるこの映画祭を企画し、上映する作品を選び、数日間の開催まで運んだ当初のメンバーを知る私は、寂しさもひとしおだった。

 また子供の頃「きっとお前たちが大人になる頃には本数も増えるよ。」と言われていた在来線は、1時間に3本だったものが、たった2本に減った。

 今私が思うのは、祖母が好きだった本を町の人たちが気軽に手に取れる場、図書館だけは旧五日市から無くさないでほしい、という願いだ。

 変わらないのは、山と川の美しさと鳥たちの鳴き声だ。

 四季を運んでくれる山々と川の音、鳥の声はおそらく祖父母が生きた時代から変わっていないのだろう。

 祖母は何の花が好きだったのだろう。そんなことも知らないまま、紫陽花の美しい坂をのぼりながら私は、毎年お墓参りを続けている。

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