和田能卓
かつて私は『福永武彦とフォークロアと』と題して、福永文学における民俗・民俗学について論じたことがあった。だが、福永の三番めの長編小説である『忘却の河』に登場した〈妣の国〉について、具体的に論ずることはなかった。(⇒01)
そこで以下、解釈学会『解釈』平成二五年(二〇一三)七・八月号(特集 近代)に発表した、主人公・藤代の妻である、ゆきの難病を軸とした『研究余滴 福永武彦『忘却の河』への一視点』の一部を(Ⅱの前半に)吸収・発展させつつ、この作品における〈妣の国〉について述べたいと思う。
Ⅰ
福永武彦の長編小説『忘却の河』は、雑誌分載による連作形式によって成立した。
一章 忘却の河 『文藝』昭和三八年三月号
二章 煙塵 『文學界』同年八月号
三章 舞台 『婦人之友』同年九月号
四章 夢の通い路『小説中央公論』同年一二月号
五章 硝子の城 『群像』同年一一月号
六章 喪中の人 『小説新潮』同年一二月号
七章 賽の河原 『文藝』同年一二月号
一章「忘却の河」から七章「賽の河原」まで作品の内部を流れる時間は、ほぼ一年間である。この作品の方法について福永は「各章が主人公を異にし従って視点をも異にするが、全篇を通して主題は時間と共に徐々に進展するというふうに書きたかった」と『忘却の河』初版(昭和三九年=一九六四年五月、新潮社)の「あとがき」に言うが、作品全体に見え隠れしながら物語を統括する人物=主人公は、一章と七章を手記(=作品世界の枠)として綴る藤代である。
念のため二章は藤代の長女・美佐子、三章は次女・香代子、四章は妻・ゆき、五章は美術評論家の三木、六章は再び香代子、が各章の主人公=視点人物であることを付け加えておく。
この各章の主人公について曾根博義氏は、「藤代を語り手(書き手)、視点人物とする最初と最後の章を除いて、二章から六章までは、語り手あるいは書き手を隠すという伝統的(十九世紀的)な小説作法上の慣習に従っている。藤代の章が語り手と書き手を表に出した書き方になっているために、かえってそれが目立つ。」と評した。(⇒02)
しかしながら、手法と主題の両方を含めて、首藤基澄氏の、
『忘却の河』(昭39・5)において、福永武彦の文学は間違いなく一つの絶巓をきわめた。(略)若書きの『風土』『草の花』に比べて、『忘却の河』は余裕のある筆致で、底深い人生を多面的に剔抉し、文学作品として非常に安定して来ているのである。(略)日本文学に本格的なロマンを確立しようと気負いながら、当時の文壇を納得させるような形では実現出来ないでいたのである。したがって、『忘却の河』は小説家として是非とも成功させねばならない作品であったとみていい。
という見解が、以後の『忘却の河』に対する共通認識となっていると見てよく、そののち書かれた『忘却の河』論における高評価の礎になったと言えるであろう。(⇒03)
ところで、安東次男氏に単行本『忘却の河』に対する書評があるのだが、そこで氏は、
この小説は、私の知るかぎりたいへん評判がよい。その評家の多くは年配の人であったように記憶する。好評の第一の理由は、芸術的香気にあふれた作品、というようなことであった。しかしわたしは、こうした評価に必ずしも賛成でない。
と酷評していた。(⇒04)
作家としての福永が醸し出す芸術的な雰囲気、すなわち香気に対する異議申し立てをしたわけだが、これに続けて安東氏は、作中に持ち込まれた茶碗(道具)の話や美術論の存在や文体・人物描写を難じながらも、「最後の一章「賽の河原」だけは、そういった欠点からまぬがれて、文体に密度があり、現代めずらしい好短編となっている。」と、高く評価した。
Ⅱ
本題に入るが、〈妣の国〉は七章「賽の河原」に四章「夢の通い路」を受けるかたちで登場する。同じ月に発表された二つの短篇小説について佐古純一郎氏は、「週刊読書人」同じ年(昭和三八年=一九六三年)の一一月一八日号の「文学12月の状況」において、両作品を「同時に読むことができたことは幸であ」り、内容が表裏一体の関係にあることから「これらの作品は、ひとつのテーマを追求する連作として、やがてひとつの長篇にまとめられるのかもしれない」とし、「しかもそれぞれが、一応独立した作品になっているところに妙味がある」と評した。二つの短篇作品の内的な関連性から長編化を予見したのは、まさに慧眼と言うべきであろう。
七章「賽の河原」に、藤代の妻・ゆきが自分の古里が海にあるような気がすると言ったのを藤代が回想する場面がある。
私は妻が死ぬ数日前に言った、自分の古里が海にあるような気がしますという言葉を思い出した。(略)そして妻のことを思い出すたびに、私は古里ということを考えた。なにがしの命は、波の穂を踏みて常世の国に渡りまし、なにがしの命は、妣の国として海原に入りましき、という古事記の一節は、高等学校時代の私の古い記憶のどこかに残っていた。私の妻もわだつみの彼方に妣の国を見たに違いない。(以下、傍線は稿者による)
と述懐する。『福永武彦とフォークロアと』にあっては、このあと、ゆき・藤代の海への想いが作者・福永の心象風景・原風景に重なるものであることを論ずるに、随筆『海の想い』の中の「私は海を思うたびに妣という言葉を思い出す」という言葉を引くにとどまっていた。(⇒05)
では先ず、「私の妻もわだつみの彼方に妣の国を見たに違いない」という一文について論じたいと思う。
藤代は、ゆきの言葉から〈妣の国〉を想起・連想し、彼女も亦、自分と同じく海の彼方に〈妣の国〉があると信じているものと考えている。が、ゆきの想いは違っていた。
繰り返しになるが、『忘却の河』の中を流れる時間は、ある年の秋の終りから翌年の秋の初めまでの約一年間で、四章「夢の通い路」は、ある年の初冬に位置している。
わたしは今まで長いあいだ影のなかにいたような気がするし、今でも影のなかをふわふわとただよっているような気がする。それは暗くて陰気でじめじめして日の射すことのない場所にいるような気持なのだが、じっさいにわたしが歩けなくなり、もう立ち上ることもできなくなって、こうして寝たきりになってしまってから幾年が過ぎたことだろうか。わたしの記憶はところどころあやふやになっていて、ものごとを正確に思い出すこともできない。
冒頭である。以下、この章はゆきの内的独白として綴られ、三章「舞台」には「母親は七八年来、脊髄の病気で倒れていて、仰向けに寝たきりで身動き一つ出来なかった。どんな医者に診せてもこれという治療法はなく、」「目立って悪くなるということもない代りに、しかし少しずつ衰弱している様子は眼に見えていた」とあり、彼女が神経難病によって寝たきりになっていることが理解される。
同様の叙述は六章「喪中の人」にもあり、この彼女の病気については、福永の結核闘病体験から脊椎カリエスと推測されるかもしれないが、そうではない。脊椎カリエスは結核菌によって脊椎が侵されるものであり、脊髄の神経が侵され「治療法が無い」神経難病とは別物である。
神経難病患者のゆきの現実には、寝たきりの身があるだけで、未来を思い遣ることがなく、過去にのみ想いをめぐらせるという、意識の流れに沿って叙述するという手法が駆使されたがゆえにもたらされたリアリティが、この章には与えられている。
病床においてゆきは、自分が経てきたさまざまな死者を想起している。子供の頃に死別した弟、生まれたばかりで死んだ子供、両親、舅姑、そして夫が応召中に愛した人・呉である。この呉との愛は不倫の愛にほかならなかったが、ゆきにとって、それは結婚してから夫との間に二女を得ながらも埋められない、夫婦の間の溝から生まれた虚しさの果ての愛だった。(⇒06)
ゆきが、愛する人・呉の戦死した事実を知ったのは、呉の父親からの毛筆書きの一通の封書が、東京から廻送されてきたことによってだった。
拝啓秋冷之候加ヘテ時局モ愈々重大ヲ加ヘツツアルノ際ニ益々御健勝ノ段奉賀候陳者愚息伸之儀兼テ皇国ノ為ニ奮戦中ノ処去ル八月十二日マリアナ方面ニテ戦死仕候平素一方ナラヌ御厚誼ニ与リ……
呉が「マリアナ方面ニテ戦死」したということが、妻・ゆきの「自分の古里が海にあるような気がしますという言葉」の裏にあったことは間違いなく、ここに藤代が能天気にも〈妣の国〉に想いを馳せたのとは違う、現実的な苦みが含まれている。が、これこそ福永文学が持つ香気によって、読者・評者に隠蔽されていたものなのであった。
すなわちゆきと呉との愛が結果的に藤代に承認された(ともに死んだ恋人を忘れられずに生きてきたゆえ)とはいえ、この点について従来言及されてこなかったのは、Ⅰに引いた安東次男氏が言うところの、福永文学にある香気にほだされた結果であるということなのである。
呉が死んだあとも、ゆきが変わらず呉への想いを胸に生きてきたことは、式子内親王の身の上に想いを馳せながら、夢に見た呉に呼びかけて、
呉さん、わたしは罪深い女でした。でもわたしは生きたかったのです。あなただってそうでしょう、あなただってほんとうは生きたかったのでしょう。でもわたしたちはあの頃生きていました。
とし、冬の朝の寒々とした硝子窓を見つめて、近い死を予見したようにつぶやいた章末の言葉が、
わたしは硝子窓を見つめながら、もうすぐよ、とだれにともなくつぶやいてそっと微笑するのだ。
であったことからも、断言できよう。「だれにともなく」というが、これが呉に対しての言葉であることは、明らかであろう。
Ⅲ
ここで、藤代が妻を回想する場面に付した傍線部中の「高等学校時代の私に古い記憶のどこかに残っていた。」という言葉について考えてみたいと思う。これは作中の藤代の高等学校時代の『古事記』読書体験の記憶であることは言うまでもないが、この叙述に福永自身の読書体験が反映されていることは、間違いないだろう。
高等学校時代の『古事記』の読書体験と言えば、先ず思い浮かぶのは国語教科書であろう。そして次に高等学校、それも藤代の場合は旧制高等学校=第一高等学校の生徒の教養としての読書だったはずである。
そこで私は、あえて作者の福永と藤代を同一視して(と言っても、『忘却の河』を書いた昭和三七年から三八年には実年齢で福永が一〇歳年下なのだが、)藤代の年齢がこの年五六歳(七章「賽の河原」に明記されている)であり、その高等学校時代というのを作品発表の昭和三八年(一九六三)から逆算して、大正一〇年(一九二一)から一四年(一九二五)の前後を含め、その時期に該当する旧制高等学校の国語教科書に『古事記』がどのように扱われたかを、霞が関にある文部科学省の教育図書館で調査した。(⇒07)
その結果、大正一四年四月二五日発行の第一高等学校國文學部編纂『重訂 高等國文 古事記』(一冊全てが『古事記』の本文から成っている)の存在を突き止めた。これと第一高等学校の他の年度の国語教科書を含めて、どの旧制高等学校の国語教科書にも傍線部①「なにがしの命は、波の穂を踏みて常世の国に渡りまし、なにがしの命は、妣の国として海原に入りましき」に該当する箇所の『古事記』本文を掲載した例はなかった。
ここで、この『古事記』上巻末尾に位置する鵜葺草不合命(うがやふきあへずのみこと)の系譜の一節を中村啓信氏の訳文で挙げると、
この天津日高日子波限健鵜葺草不合命が、その叔母の玉依毗売命と結婚してお生まれになった御子の名は、五瀬の命、次に稲冰命、次に御毛沼命、別名は豊御毛沼命、もう一つの別名は神倭伊波礼毗古命、四神。この御毛沼命は、波頭を踏んで常世国にお渡りになり、稲冰命は、亡き母の国ということで、海にお入りになった。
ということになる。(⇒08・11)
この一節が、旧制高等学校の国語教科書に『古事記』の本文として採られた形跡はなかった。おそらくこの一節が、教科書編集者にとって格別重要な意味を持たなかったからであろうし、事実、先の『重訂 高等國文 古事記』でも割愛されていた。
が、しかし、福永自身にとって,この一節は、実に意味深いものなのだった。
生前の福永と対談(『小説の発想と定着』『国文学』一九七二年一一月号)をしたこともある菅野昭正氏の『「妣の国」まで/「妣の国」から』によると、「福永さんは学生時代から『古事記』をよく読んでおられたとおっしゃっていました。一九六一年に、『古事記』の現代語訳までされている。」と続け、引いたのが、随筆『古代人の詩的幻想』であった。(⇒09)
そこで福永は、
歌を別にして、物語の部分で僕が最も詩的な感動を覚えるところは、上巻の最後を占める次の二行である。
「かれミケヌノ命は波の穂を踏みて常世国に渡りまし、イナヒノ命は妣の国と為て、海原に入りましき。」
常世の国も妣の国も、文面通りに読めば、いずれも海の彼方にあるし、意味するところは死者の国である。(略)この部分の「常世の国」と「妣の国」とは、古代日本人が、より古代への憧憬を含めて、その詩的幻想を定着したものである。(略)そこには、折口信夫博士が、「まれびと」について試みられたような、民俗学的風習があったに違いないが、それは長い時間に洗われて、その結果として、古代人の幻想をとどめるこの二つの単語に凝縮した。しかし古代人の持つ浪漫性は、ただこれだけの中にも、鮮かに示されているように思う。
と述べ、『古事記』の世界に惹かれた自身の、〈妣の国〉と〈常世の国〉に対する、深い想いを書き付けていたのだった。(⇒10・11)
〔注〕
(01)『福永武彦とフォークロアと』は『昔話伝説研究』第一一号
(一九八三年七月)に掲載され、のち『福永武彦論』(一九九四年一〇月、教育出版センター)に収録された。
その論旨であるが、福永は「意識的に民俗学的知識――なかんずく柳田國男・折口信夫の民俗学の成果――を取り入れた作家であったと言える」のであり、「我々日本人の心の裡に在る(無意識的な)民俗学的知識を呼び起こし、あるいは呼び覚ますことによって文芸的共感を獲得し、」「本格的なロマンをこの国の文芸史に根付かせようという想いの実現を図ろうとしたのではないか」ということだった。
(02)曽根博義編『鑑賞 日本現代文学 27巻 井上靖・福永武彦』(一九八五年九月、角川書店)の三八九頁「各章の独立性」の項。
(03)『福永武彦の世界』(一九七四年五月、審美社、)の第五章「忘却の河」九三~九四頁。同書はのち、『福永武彦・魂の音楽』一九九六年一〇月、おうふうに所収。
(04)『書評『忘却の河』』(『朝日ジャーナル』一九六四年七月一二日号)「手法と文体」の項。『日本文学研究資料刊行会編『日本文学研究資料叢書 大岡昇平・福永武彦』一九七八年三月、有精堂の二一九頁。
(05)『おとなの絵本』八号一九六八年八月、のち『遠くのこだま』一九七〇年八月、新潮社→同社『福永武彦全集』第一四巻一九八六年一一月の一七五頁。
(06)七章「賽の河原」で藤代はゆきを憐れみ、その人生において、真に愛する人があったことを受け入れている。
(07)国立教育政策研究所教育研究情報センター教育図書館。
(08)中村啓信訳注角川ソフィア文庫『新版 古事記 現代語訳付き』二〇〇九年九月の三一三頁。
(09)近藤圭一、岩津航、西岡亜紀、山田兼士編『福永武彦を語る 2009~2012』(二○一二年一二月、澪標)『シンポジュウム1 福永文学の新しい可能性をめぐって』の「基調報告1 菅野昭正『「妣の国」まで/「妣の国」から』一○頁。
(10)岩波書店版『日本古典文学大系 第一巻 古事記』月報一九五八年年六月、のち『批評B』一九六八年一〇月、文治堂書店刊に収録→新潮社『福永武彦全集』第一七巻一九八七年八月の二六六頁~ニ六七頁。
(11)この福永の深い想い=認識に、折口信夫の『妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏』(『國學院雑誌』第二六巻第五号 一九二〇年五月、のち『古代研究』第一部 民俗学篇第一、大岡山書店、一九二九年四月所収→『折口信夫全集』第二巻、一九九五年三月、中央公論社の一五~一七頁より)が強く影響を及ぼしていたことは言うまでもないことである。
すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〱の祖たちの恋慕した魂のふる郷であったのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます國なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた題なのであつた。(略)いなひの命と前後して波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世と言うた。
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