山田浩貴
●音楽の直接性
音楽は「あからさま」な芸術ジャンルである。目をそむけることはできても、耳をそむけることはむずかしい。また、音楽が流れていると耳をふさぐことはなかなかできないものだ(耳には、なぜか、まぶたのような「フタ」がない)。音楽は、そこにいる者を容赦なく巻き込む。
たとえば、文学を鑑賞するためには、まず文字、文脈などを認識し、理解する段階を経る。文学は「変化球」の芸術ジャンルである。一方、音楽は「直球」であり、遠慮会釈もなく耳の中に土足で上がり込んでくる。
●音楽の影響力
この文章のタイトルは、鉄道駅の発車メロディーの作曲者に語られた言葉である。この言葉には、「音楽が否応なく自分に訴えかけてくる」という嫌悪感が示されている一方、皮肉なことに、賞賛もふくまれているのではないか。これは、心にずかずかと上がり込んでくる音楽の性質について言っていることに相違ない。音楽は、聴きたくない人にとってはうっとうしく感じられる。
音楽の影響力によって感情をかき乱されるのを嫌う人もいるだろう。音楽はセラピーにも利用されるが、その逆の効用をおよぼす可能性もある。音楽には功罪がある。
●音楽の暴力性
音楽は空気の振動でしかない。だが、人々の心に浸潤し、「感動した」などと聴き手に言わせることもある。これは、空気の振動である音楽が、いつの間にか、心に達しているということである。
音楽が他のジャンルからあこがれの眼差しを向けられるとすれば、それは「あからさま」な芸術ジャンルであるのと無関係ではあるまい。その場合、直接性(言葉を換えるならば、暴力性)があこがれの対象になっているのであろう。空気の振動である音楽は、鼓膜そのものに刺激を与える。これほど暴力的な芸術ジャンルはない。
●最後に
音楽家にとって音楽の暴力性は武器でもある。しかし、その責任として、そうした性質をわきまえないといけないだろう。好き好んで料金を払い、音楽を聴くためにわざわざホールへと足を運ぶ人は、ある意味、暴力性を自らすすんで受け入れることである。しかしながら、そうした暴力性を忘れるくらいの上質な作品(の演奏)をのぞんでいる人は多いのではないか。
初出:「山田 浩貴――芸術の楽園」(2022年1月16日)。 初出の文章を加筆・修正。
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